純粋経験とスポーツ
最近スポーツ関係者、監督、コーチ、選手の中には西田哲学に興味を持つようになって来たよう思われます。
1000分の1秒単位の判断や行動を体験的に実感するには西田哲学の知識が必要になるからです。
また見ていない見えていない自己の後ろを見ることが出来ることは「純粋経験とは情報収集システムである」で明らかにした通りで、盲人が目が見えなくとも見えていることからも確認できます。
雑音、騒音から、あるいは群衆の中から人間は必要とする情報を瞬時に引き出すこともできるのです。
誰でもその能力は備わっており活用することが出来ることです。
ただ理論を体験的に理解することが必用でありますが、その体験は残念ながら言語化することはできません。
考えることはむしろ逆にその直観から遠ざかる結果になります。
ではどうするのか、そのスポーツと一心一体になることで、無心いわれています。
主客未分状態に自己を置くことで、見えない範囲は観客の雑音、騒音で状況判断するのです。
雑音、騒音の言語的意味は伝わりませんが、感覚的に雰囲気が伝わってくるのです。
その雰囲気を記憶しておき、現代ではビデオで客観的に確認出来るのでその意味を確認するのです。
考えることがダメだとは言わないのです、試合中は考えることに注意を逸らされて本来の感覚が麻痺してしまうからです。
その感覚から逸れて考えてはいけないということで、感覚と一体に成ることを主客未分といい、思惟と行為が統一されているというのです。
言語は虚構だとか、妄想だという哲学者もいますが、知覚、感覚と一体的に統一されている思惟は純粋経験なのであり現実なのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。