『門』論3:ラカンと逆鏡像
親は何故子供を恐れるのか。
それは子供が自己を映す鏡だからだ。
それを逆鏡像という。
ただしラカンの辞書にはのっていない
いはゆる鏡像のフロイドの逆転移とおなじだ。
子供は純粋なだけに親の弱点をそのまま見せつけることになる。
親にとってこの弱点がどれほどおそろしいものであるか、そして親は意識から抹消する。
さいわい宗助がその思いを告白しているので再度取り上げたい。
宗助にとって兄弟ではあるが親とおなじ立場にいることに違いはない。
「宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生(そせい)して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々(にがにが)しく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据(す)え付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥(おちい)るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。」
その弱さを見ておびえる親を見て子供は自己を否定されたと感ずる。
弟も宗助に見捨てられたと失望した。
親がおびえるほど自己は悪いのかと不安をおぼえるようになる。
宗助は自己の弱点を知るのをおそれ全財産と引き換えにしても惜しくはないと思った。
それでは夏目漱石が「逆鏡像」という考えを早くから持っていたという言葉をとりあげたい。
「その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩(も)らさない鏡のように光っている。
「しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。」
いかがでしょうか自分の子供が親の鏡といっているのです。
ラカンの鏡像と親子が入れ替わっているのです。
さらに「負ぶって貰(もら)ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」と続けます。
「今に重くなるよ」とおやの行動を背中の子供がいいます。
なぜなら親が「こんなものを背負(しょ)っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣(うっち)ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。」と親は考えます。
「今に重くなるよ」とは親の責任を意味するのです。
この作品は漱石の何かといえば『夢十夜』の第三夜の一部分を引用したものです。
すこし異様な感もしますが親の恐怖を表現したものです。
背中におぶってもらっている赤ちゃんが暗い闇の中に寝かせられる時に、
泣きだすのを見て親が動揺をするさまを表現したものです。
ここで親が動揺してはならないのです。
親の動揺は赤ちゃんにとっては不安と恐怖をおぼえるのです。
そこで親は不動心でいなければならないのです。
そのようにして逆鏡像をふせがなければならないのです。
子供が親の心を映すと言ってもそれは勝手に親が思うだけで子供は時々泣くだけなのです。
そんな思考が出来るわけがないのです。
それでも親の鏡の役割を果たすことには違いないのです。
それにしてもラカンのの鏡像で幼児が父にライバル意識を持つような思考が出来るのか疑問です。
なにせ自己意識さえ確立していない幼児に父と母の区別が出来るのだろうか。
逆鏡像を適用した方が単純に幼児の疎外意識が理解できるようにおもう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
夏目漱石の作品からの引用は青空文庫です。