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瞑想8:諸行無常


無常といえば『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」がよくしられています。

万物のはかないことの教えであります。

ところで西田哲学は西田幾多郎がこの諸行無常を体験して生まれた哲学であることを明らかにしてゆきたいと思います。

西田哲学の純粋経験はどのような体験なのかは専門家のあいだでもよく解らないのです。

しかしいつまでも記憶に残る強烈な体験に違いないのです。

「仏教の三法印」の一つである「諸行無常」の体験を哲学的に展開したものと考えられます。

西田幾多郎には人生のはかなさを記録した著作が残されているのです。

研究者が見逃しているだけなのです。

昔は家族が多かったとはいえ姉をなくしてショックと悲しみに泣いたという。

さらにわが子の五人をなくしているのです。

その経験は『我が子の死』という作品に書かれているのです。

東圃とうほ君も前後して我が子なくしていて東圃とうほ君との間だでは言葉は使はなくっても意思が通じたと書かれています。

言葉は虚偽だというのです。

「誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡すべて浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能あたわざる所に存するのである。」

言葉の善意を否定して虚偽だというのです。

更にその虚偽も否定するのです。

そには再び善意がのこるのです。

まず初めに善意は虚偽だと次のように否定するのです。

人の慰めは悲しみを忘れようとするのを逆なでするようなものだと言うのです。

ところが不思議なもので一方で我が子の死をいつまでも忘れたくないのも事実であり。

「折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。」

「この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。」

この考えは「即非の理論」である。

「即非の理論」は友人である鈴木大拙の言葉であるので影響がなかったとは言えないのです。

「利害得失の念」や理性を超越した思考は純粋経験と言われるのです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用は青空文庫です。


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