愛なき時代に生まれたわけじゃない
老いてなおプレイボーイたるウディ・アレンの作風を水道橋博士が『夢の砦』に例えて間もなく、彼はハリウッドを追放された。引用されたタイトルは、小林信彦の代表作のうちのひとつ。主人公の辰夫のキャラクター造形は『ヒッチコック・マガジン』の編集長だった著者の体験をベースとしており、セリフには氏のエッセンスが詰まっている。例えば「モラリスト」について。
〈人間のあらゆる欠点を知り尽くした上で、なおかつ、自他に誠実であり得る人間。この上なくきびしい人間批評の眼を持ちながら、それでも他人にやさしくなり得る人間〉
父親が結核で倒れた大学時代に『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』をはじめとするピカレスク小説に耽溺した著者の理想でもあることを読者は知っているだけに、この述懐はひと際胸に迫る(老舗和菓子屋の九代目の父親の死と暖簾とをめぐるゴタゴタについては『日本橋バビロン』と『和菓子屋の息子』にくわしい。二人の叔父のきわめて打算的な物言いは、小林青年を人間不信に陥らせる)。
プレ高度経済成長期の東京において〈本当の紳士〉であろうとし、雑誌を一つの母体として〈同世代の作家、詩人、評論家、映画監督、テレビプロデューサーが自由な発言をなし得る文化圏を作る〉という辰夫の夢は、皮肉にも、やさしくなりたい彼の温情を要因に、内部から瓦解してゆく。『夢の砦』とは滅びの象徴なのだ。
〈けっこうな話だわ。でも、あなたの夢の世界で、私はどこにいたらいいの? 私のいる場所はないんじゃない?〉というガールフレンドの不満は、今現在の世界において、更に響きを強くする。この物語のプロトタイプとなった未発表作品のタイトルは『男たちの道』だ。
著書の言によれば『夢の砦』は〈『坊っちゃん』の六〇年代版〉で、漱石マナーに則り、辰夫の先輩にあたる三十代の女性編集者は〈火吹き竹〉とあだ名される。色白で整った顔立ちではあるが、のべつ煙草をふかす姿を辰夫は好ましく思っていない。敗戦直後にお茶くみとして入社した彼女は、専務の黒崎に犯され、長らく愛人関係を続けた。上下関係を盾にしたうえ、結婚をチラつかせる男の汚い振る舞いが容認された時代。もっとも、#MeToo運動が高まりを迎えるまで、ハーヴェイ・ワインスタインの悪行は半ば公然の秘密であったのだから、山は動き始めたばかりだ。ウディ・アレンの性的虐待の件に関しては、猿渡由紀が著書にまとめたとおり、真実は未だ藪の中で、ある意味では「怒りの万引き」(©️坂爪真吾)の世界的被害者であるとも言える。デンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンもそうか。
水道橋博士の『藝人春秋Diary』に収録された各エピソードには、前三作と同様に「その後のはなし」が添えられるのだが、その筆にはSNS時代を生きる芸人の苦衷が滲む。博士と同世代の菊地成孔は、最新刊の『次の東京オリンピックが来てしまう前に』のなかでこう書いている。
〈あらゆる「狩られるもの」は、気分なのだ。今日、集団的に疎ましがられているものが明日狩られる。数値はいくらでも捏造できる〉
満を持しての映画監督業では信者の期待を裏切り、「ワイドナショー」での放言で以て、リベラリストの感情を逆撫でする松本人志の天才を博士は信じる。サブスクのコンテンツまでに、しつこに今様のコンプライアンスを適用させようとするモラリストは〈本当の紳士〉たり得るだろうか?殿の御乱心を演出した「週刊新潮」の不義理に対し、全面的なたけし軍団の擁護に回ったオール巨人は「男の世界」の住人だ。
〈軍団の人たちは正直よう言ったーと思いますよ。今後の仕事に影響する可能性もあるのに、それでも団結して師匠を守るためにブログなどで発表して自分の気持ちにウソをつかないことを選んだ。彼らは批判されることを気にしないでしょうし、むしろ矛先が自分たちに向くのであれば本望でしょう。たけしさんは本当にいい弟子を育てはりましたね。口には出さないでしょうけど、涙が出るほどうれしいと思いますよ。一般の方々には、この『師匠を持つ』という感覚は理解できないかもしれません〉
志半ばにして「ヒッチコック・マガジン」の編集長の座を辞することになった小林信彦の励ましの会に、少しでも顔を出したいと思い、多忙の合間を縫って駆けつけた大島渚の侠気はオール巨人のそれに等しい。
〈おれは、この人の悪口は、間違っても、筆にすまい。(中略)莫迦な話だと笑う人は、私たちの世界を理解できぬ人である〉(『時代観察者の冒険』より)
是々非々の意味を履き違えたオトナコドモが跋扈する。いたずらにポリティカル・コレクトネスを内面化し、対外的なスペックに変換しても、それは単なるイミテーションのアクセサリーでしかない。愛はおしゃれじゃないのだ。
「軽々しくアップデートなんて口にする奴に人間の心の機微がわかるわけがない。そんな奴をおれは絶対信用しない」と断言する太田光は、辰夫が理想としたモラリストそのものだ。
今年の八月のこと。生活保護費受給者やホームレスの存在を猫より遥かに劣るものとし、自分本位の有用性を規準に価値付けしたDaiGoのYouTubeチャンネルが炎上した。翌週の「爆笑問題カーボーイ」のオープニングでは、まず、太田が愛聴する横山雄二の番組の話題をきっかけに、テリー・ギリアムの作家性についてのトークで盛り上がりを見せた。太田は『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』のメタフィクショナルな語りが原作の構造をトレースしたものであることを指摘し、彼の波瀾万丈のキャリアを参照したうえで、映画とテリー・ギリアムとの関係をドン・キホーテとサンチョ・パンサのそれになぞらえる。淀みのないストーリーテリングが尊ばれるネトフリ全盛の現代において、反コスパ主義を体現するテリー・ギリアムの映画づくりを太田は「壮大な無駄」と定義した。無為に殉じる狂人の理想を崇拝者が共有する世界。そうした作家論をマクラにして、有用性を正義とするDaiGoの主張に切り込んでゆく。
「そもそも、努力すらしないでホームレスになっちゃったひとたちの人生って、ホントに無駄なのかな?そこがまずひっかかるんだよね」と前置きし、猫を害獣とする視点で以て相対化する。更には、芸人の己れの仕事をも「無駄」と見なしてみせる太田の論理は、落語を「なくってもなくってもいいもの」とした古今亭志ん生の芸能観にも通じる。
肉食の人間が小さな生き物に愛情を注ぐ理由を、有史以来の人類は研究し続け、いかな哲学者や宗教学者、科学者も未だ明確な答えを導き出せてはいないのだと、太田の語りはスケールを広げ、ボルテージを高める。保護猫団体を支援するDaiGoには、体の深いところで命の尊さがわかっているはずなんだと説く太田のやさしさに、わたしは心を打たれた。
彼のフェアネスに満ちた健康な精神は、博士のペンにも漲っている。議員会館の廊下で、安倍晋三が辻元清美とノーサイドのエールを交換する光景には、ひとりの人間に対する正しい敬意が込められている。言うまでもなく、水道橋博士も太田光も、ビートたけしチルドレンであり、小林信彦チルドレンでもあるのだ。