卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説 (魏志倭人伝の解釈について)
前提
邪馬台国の所在地について色々議論はあるが、邪馬台国が九州にあったのか、奈良盆地内にあったのかという疑問を出発点にしては解消できない矛盾も、次の大前提を置いてみると、割とすっきり解消しそうな気がする。
大前提:邪馬台国のあった時代には、北九州の国々も、奈良盆地内の国々も、それぞれ遠いクニグニに関する詳細情報はほとんど持ってなかった。
この時代の人びとの他のクニグニに対する認識(想像)については別ノートに纏めた。
魏志倭人伝の解釈について
魏志倭人伝の記載内容について、畿内説と九州説のどちらの蓋然性が高そうか、3つの視点からの比較を纏めてみた。
1.方位・距離関連
魏志倭人伝の記述をそのまま使うと、倭国は九州の南方海上になってしまう。
この矛盾の解釈について、自分はこの動画解説が気に入っているが、単純化すれば編者陳寿の司馬懿に対する政治的忖度が入っているという解釈。
当時の魏は倭国を味方につけ、敵対する呉を牽制したい思惑があった。という理解が背景にある。
この解説者の方だけの考えというより、多かれ少なかれ専門家の方々の間でも共有されている解釈のようだ。
不弥国までは北九州地域という理解で異論は少ないと思う。「水行」の記述を上記理由で一旦棚上げすれば、その後南へ向かい投馬国へ、更に南に向かい邪馬台国というのだから、大雑把に九州の内陸部と理解して良いと思う。
邪馬台国の具体的候補地については、今のところあまりこだわりは無いのだが、九州説についてで紹介した動画の解説が気に入っている。
邪馬台国が九州にあったと仮定して、行程以外の記述に矛盾が無いか見てみると、
女王国以北の国々(伊都国、奴国、不弥国など)については戸数や距離などの情報が得られたので記載しているわけだ。女王国の北に一大率を置いているというのも、伊都国との位置関係で整合性がある。
東の海を渡って倭人がいるのも、中国・四国地方を指していると理解して問題ないし、それら女王国の北にある国々以外については情報が得られないから、国名程度しか記載が無いわけだ。
また、自分は魏の使者は伊都国、不弥国止まりまでしか足を運んでないと推測しているが、それは「魏の使者は邪馬台国を訪れたか」に纏めた。
畿内説を採ると、このあたりの解釈に無理が出てくると感じているが、それについてはこれを前提にしたために派生する論説の違和感・矛盾は別ノートに纏めた。
自分の感覚としては、この視点から見た邪馬台国が九州・大和の可能性は7:3ぐらいか。
2.風俗関連
自分には北九州の武骨なイメージの方が、畿内の穏やかなイメージより近い。 入墨はヤマト王権の文化にはなかったはず。百済王朝にはあった。 儋耳・珠崖は南方系だし、鉄を含め楽浪郡関連の遺物は纏向は皆無に近いと理解してる。「楽浪土器は北部九州では比較的多く見つかっているが、関門海峡以東では極めて稀で、現状では山持遺跡と松江市鹿島町海揚がり土器しか知られていない。」という。
邪馬台国や倭国のイメージと、ヤマト王権のイメージの違いについては別ノートに纏めようと思う。
この評価で、九州・大和の可能性は7:3ぐらい
3.卑弥呼の死後の状況
卑弥呼の死後、上記のような殺害が起きたらしいが、纏向周辺で起きたのか? 可能性は否定できないだろうが、イメージとしてはやはり九州の方が当てはまりやすくないか? 九州・畿内の可能性は6:4ぐらい?
当然数字は感覚的なものだ。でも、以上の3つの視点からの評価を総合的に見た場合、畿内説、九州説のどちらの蓋然性が高いだろう?
なお、ここで畿内説の蓋然性の方が高いとした場合に感じる違和感などは、畿内説の根拠についてに纏めた。
関連ノート
全体の概要と全体の構成は下記ノートに纏めた(#MOC241116)
縄文~古墳時代の理解(邪馬台国の位置論を意識して)
卑弥呼・邪馬台国の九州説・畿内説の比較と自分なりの理解は、3つのノートに纏めた(#ノート241116)
卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説
・魏志倭人伝の解釈について (このノート)
・九州説について (リンク)
・畿内説の根拠について (リンク)
上記の前提や背景になる理解・根拠をいくつかのメモに纏めてあるが、気が向いたらこれからも少しずつ増やしていくかもしれない
(#メモ241116)