"人疲れ"の突破口3
12月10日、日曜日。
昼食を食べていると、自分の家の敷地内に見知らぬチャリが停まっていた。
「何の断りもなく人んちに無断駐輪するなんて、どんな神経してんだよ」
そう思いながら暫くチャリの前で待っていたら、出前館のバッグを背負った気弱そうなネパール人(?)と、学生時代にめちゃくちゃ喧嘩したまま今日まで口を聞いていなかったお隣のおじいさんが現れた。
なかなかカオスな状況の中事情を聞いてみると、シンプルに迷子だったらしい。
今までの自分だったら関わろうとすらしなかったと思うが
昨日の今日で、"人と関わってみよう"的なスイッチが入っていたのと
事情が事情だったので、一緒に配達場所まで案内することに。
最初は若干僕に詰められたこともあって(ごめんね)今にも泣きそうな顔だったが、配達場所に着くと満面の笑みで「アリガトウゴザイマース!」
と言い残してマンションに入っていく出前館。
そして「君のおかげで場所が分かってよかったね」と言ってその場から去っていった喧嘩おじ。
うまく言語化できないが
人の人生の登場人物になれたことが嬉しかった。
俺って今、確かにここにいるんだ。
午後、マーチンの8ホールが欲しかったのでみなとみらいに駆り出た。
最初に対応してくれた店員さんと話しながら試着。
一回家に持ち帰るために着画を撮影させてもらったのだが、その時に
「もしかして、イラストとか描かれてる方ですか?」
「他にもものづくりとかしてる方ですか?」
「○○高校ですか?」
全て返事は”はい”。アキネイターかお前は。
「もしかして、いとそ先輩ですか?」
高校の後輩だった。しかも直接絡んだことがない。
「一瞬待ち受けのハスキーのイラストが見えて確信に変わりました!SNSでよく見てたので。」
初めてリアルで関わったけど、めちゃくちゃいいヤツだった。
そしてふと我に返ると、左手には「Dr.Martens」と書かれたクソでか紙袋を持っていた。
めちゃくちゃ嬉しかった(営業だとしても)。
昨日の友人といい彼といい、わざわざ僕に話しかけてくれる人がいるんだ、と。
あと純粋に自分の作品を見てくれてる人がいて、誰かの心にそれが残ってくれている事実が嬉しかった。
帰り道、4か月くらいずっと避けてきた電車に乗った。
たった一駅だけど、乗ることができた。
たった一駅だけど、世界が広がった。
noteを始めた頃から、「ひとりで生きていく覚悟」を決めることに拘って過ごしてきた。
人で寂しさを埋めようとする。このスタンスに懐疑的なのは今も変わらない。「寂しさ」は自分の中の問題であり、人が埋めてくれるものではないと思うからだ。
ただ、(根本から回避型愛着スタイルの人間は例外かもしれないが)人と関わることでしか摂取できない栄養があると思えるようになった。
し、それを認めることで自然と「覚悟」は育っていくような気もしている。
寂しさに向き合わないために、理論武装で自分を守ろうとしてしまっていたのかもしれない。
自分の心の声に耳を傾けて、楽しいと思える方向に向かいながら
適度に人と繋がりながら生きていきたいと思えた。
今後、心の揺らぎが来た時に血迷う事になるかもしれないけど
そんな時でもこの気づきを忘れないために、ここに書き記す。
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