9.私は足が太い
今日はよくある自己肯定感のお話。
皆さんは今の自分が好きですか?
自分自身、ここ最近は
「可もなく不可もなく普通」の感情を持っている。
振り返ってみると
小学校:そもそも自己肯定感という概念がない(表すなら「まあ好きな方なのかな」程度)
中学1年生〜中学生2年生:自己肯定感は高かった
中学3年生〜転職前:自己嫌悪の塊
転職後〜現在:普通
という流れだ。
今日は
昔と今の自分の何が違うか、
そもそも自己肯定感とは、
なぜ嫌悪へと変わったのか、
また今はなぜ、嫌悪から普通へと変わったのか
書いていきたい。
1.昔と今
そもそもとして、
「女性は可愛くなくてはならない」
「女性は綺麗でなくてはならない」
「女性は華奢で細くなくてはならない」
のような価値観を、
女性なら誰しもが感じたことはあると思う。
サークルの後輩に学科1の美人が入ってきた!(羨ましい、付き合いたい)とか、
あの子は顔採用だ。(いいなぁ)とか、
あの子のモデルのような脚に憧れる!(交換したい)とか、
美人が優遇される状況は勿論に多い。
そして逆にそれを"持っていない事"の悪口を本人に言われることもある。
私自身、顔や体型に関して直接的、間接的にも言われた事がある。
その為か見た目のコンプレックスと自己肯定感は、
少し前まではかなり連動していた。
しかしこの価値観だけで考えた時の面白いことは
昔よりも大分垢抜けた今の方が、
小学校や中学校始めの自己肯定感が高かった時の自分よりも
「毎日が楽しくない感情を持っている」ことだ。
(垢抜ければ人生楽しくなると思ったのに、昔ほど楽しくない、という事。)
こんな書き方をすると今の生活が楽しくないような言い方になってしまったが、決してそういうことではなく
今はこの「見た目コンプレックス連動型自己肯定感」から解放された、というのが正しい。
2.自己肯定感とは
そもそも最近よく見る「自己肯定感」とは何か。
自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心、自己存在感、自己効力感、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である。
wikiより
ありのままの自分を、自分として認めること。
自分が自分らしく、ここにいる事が理由なく、認められること。
3.自己嫌悪へ
中学受験をし、入った学校。
御三家の様なとてもレベルが高いわけではなく、
そこそこの学校だが
偏差値40代から第一志望の学校へ入れた"嬉しさ"もあり入学当初、自分の事はまぁまぁ好きだったと思う。(第一に自己肯定感等、そんなことは気にしてなく日々がただ「楽しい」だった。)
しかし、だんだんと学校生活をするにつれ
残念ながら「可愛い」「綺麗」「細い」を自分は持っていない側として産まれた、と気がついたのが
中学3年生からの自己嫌悪の始まりだった。
きっかけは当時好きになった子の周りからの
(男女共に)
「あいつ足太くね」「うわ、足やば」「ブスじゃね」
といった言葉だった。
今思ってみるとふざけていたのか、本気だったのかは知らない上
本当にしょうもない様なきっかけだが
当時、運動部に入っており、
・自身に「太っている自覚」があった事
・周りは本当に綺麗な子が多かった事
から自分の"劣等さ"に気がついたのが、中学3年生だった。
(じゃあ痩せればいいじゃん、という話は話が逸れる為、今は置いておく。)
Twitterをみていると、整形依存症や過食症、拒食症になる人もこういったきっかけが多く
確かに思春期に受けた言葉は、意外とその人の人格やその後の人生までも変えると個人的には思っている。
4.自己嫌悪→普通へ
上記のきっかけから始まり、
その後も高校、大学と様々な事があり
転職前までずっと自分の中で自己嫌悪の"しこり"としてあったのが
①顔が可愛くない
②太っている
③頭が悪い
主にこの3つだった。
では呪いの様な自分の自己嫌悪から何を以って
「普通」になったか。
理由は主に2つある。
1つ目は
「どんなに足掻いても過去は変わらない事を知った(その時は"諦め"だった)」だった。
それがどう繋がるの?と思うかもしれないが
自分のこれまでを転職する際にこれまでを振り返り
過去について事実をただ事実として捉えるだけなら良いが
そこに感情を入れて物語を語り見せた所で、過去がどうにかなるものではない、何も起こらない、変わらないと思った。
つまり、私が上記のコンプレックスをなぜ持っているかの理由は変わらない、言われた過去の事実は変わらない。
なのにも関わらず、なぜいつまでもそれを気にするのか、囚われるのか
と時間の無駄に気が付いたのだ。
そして2つ目は
「他人は、自分が思っている以上に自分に興味がない」事に気がついた。
周りは私がコンプレックスを持っている事にも、過去どんな事があったのかも興味がない。(そして大概の人は、コンプレックスの1つ2つはある。)
私と話をしながら四六時中全てのタイミングで、「この人、頭の悪いデブスだなあ〜」と思っている人もいないだろう(思われてもファーストミートくらいで、そこから不快感があるならもう会わないだろう)、と気が付いたのだ。
※仕事だと別になるが。
大学卒業後からは自分の気の合う友達しか会わないこともあり、
プライベートで会いたくない人とは会わない快適さ
会っている友達ですら、私のコンプレックスを知らない上、(良い意味で)そこに興味がないだろう、と気が付いた。
2点からお気づきかもしれないが
ただの自意識過剰だったのだ。
5.現在
自分のただの自意識過剰に気がついてからは
色々な事を「気にしなく」なった。
様々な本にも書かれているが、
他人の受け取り方、感情は他人のものである。
自分がどうにかできるものはない。
そして自分自身でも自分の事の全ては分からないにも関わらず、他人が自分の全てを解る事はない。
五条悟ではないが、自分と他人の間には"見えない無限"が存在していると思う。
その上で何かマイナスな事を言われたところで、
何も思わなくなった。
決して周りを突き放したり、
理解してもらう事を諦めたのではなく
自分と自分以外という意味がわかった事で、
良い意味で他人への期待と距離感が分かった。
そして様々な価値観を正しい意味で"受け入れる"事ができる様にもなったと思う。
最近読んだブッダの本にも同様のことが書かれていた。
これに関しては別記事で書こうと思う。
自己肯定感が低い人は、
他人の中に自分を期待しすぎなのだと思う。
それは決して悪いことではないが、
自分は自分のもの、他人のものではない
と思ってみると少し気持ちも楽になると思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?