「魂」って何だろう?
「魂(たましい)」という言葉があります。長年、この「魂」という言葉の意味あるいは概念を、どのようなものと考えたらよいか、機会があるたびに考えてきましたが、なかなかとらえにくい言葉のひとつです。
とらえにくい理由の一つは、意味に幅があるということだと思います。「死後の魂」というような霊的な意味合いでも使われますし、「入魂の一投」のように、その人の全存在がにじみ出ている、みたいな使い方もします。
前者の霊的な意味に関しては、「霊魂」のような合成語でも使われますね。これについてはサンタクロースと同様で、人の想像や空想の中には存在しますが、その実在を信じるかどうかは、個人の考え方次第だと思います。ここでは霊的な意味での魂は取り合えず置いておいて、後者の意味合い、つまり全存在がにじみ出ている、というような意味合いに焦点をあてたいと思います。
池田晶子の哲学的エッセー『魂とは何か』の中で、池田は「すでに自分であるところの自分」のことを「魂」と呼んでいます。おもしろい言い回しですね。少し分析的に見てみると、「私探し」などと言うときの「私」は「社会的な私」ですが、それを認識している「私」は「形而上的な私」で、「形而上的な私」のほうを池田は「魂」だとみなしています。以前の記事で、鏡に映った自分と鏡のこちらで見ている自分という比喩を使いましたが、それになぞらえると、「社会的な私」は鏡に映った自分(つまり、他者から見えている自分)であり、それを見ている「形而上的な私」というのが鏡のこちらで見ている自分ということになります。それこそが「魂」であると池田は言います。
池田によると、ウィトゲンシュタインがどこかの断章で、「犬の振る舞いを見ていると、その〈魂〉を見ているのだ、と言いたくなる」と言っているのだそうです。振る舞いの背後に想定されるのではなく、振る舞いそのものが「魂」なのだと。「魂」が何であるのかということを考えるとき、この池田の(そしてウィトゲンシュタインの)説明は、けっこう納得できるように思いますが、いかがでしょう?
前回、西田幾多郎の『善の研究』について、西田が考える「善」は、「自己の発展完成self-realizationである」ということを書きました。自己実現こそが善きことだと西田は考えていたということになります。ただ、実現するべき「自己」は、おそらく私たちが普通に考えている「自分」ではありません。私たちが考える「自己」は、主観的で独りよがりなこだわりに過ぎず、そのような「偽我」(西田はそのような用語を使っています)を消していったその先に、真の自己が現れ出てくると言います。
犬は、自分がどう見られるかということを気にして演じるというようなことをあまりしません(演じようとする犬がいたとしてもバレバレなんじゃないかと思います)。西田がいう「偽我」というのは、素のままに生きている犬にはあまり縁がなさそうです。ほかの動物も同じかもしれませんが、犬は特に率直であるような気がします。ウィトゲンシュタインはきっとそのような犬の振る舞いを見て、そこに犬の「魂」を見たのではないかと思います。
人間の場合は、もう少し複雑で、ニセものというか借りものの自分(鏡に映った自分)を作り上げて、それが自分だと思い込んでいる面があります。でも、すっかり借りものの自分に同一化することはできず、その人らしさのようなものがフッと現れることがあります。真の自己(鏡のこちらにいる自分)というのは、そのように、自然とにじみ出てくるその人らしさとでも言うべきもので、それが「魂」だと考えると、しっくりくるような気がするのですが、いかがでしょうか? 改めて、池田が言う「すでに自分であるところの自分」という言い回し、言い得て妙だなと思います。
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