【連載】One Heart流 「さとり」への探求。序章
こんにちは。
私の祖父は、
高野山の修行僧でした。
その後、九州で住職をつとめていました。
祖父については、そのこと以外あまり詳しく知りません。
(母は、祖父が60歳の時に生まれたので母が中学生の時に亡くなっています)
母や伯母たちは、祖父を「厳しい人」と口々に言っています。
私は勝手に”お坊さんは心穏やかで、達観している人”というイメージを持っていましたが、「厳しい人」と聞いて「お坊さんも感情的になることがあるんだ」と驚いたことがありました。
祖父の厳しさについては、母から少しエピソードを聞いている程度。
「畳の縁(へり)を踏むなー!!」とか「もっと静かに戸を閉めろ!!」とか、怒鳴るような感じで顔を見ると何か言われていたそうです。
母や伯母からの言葉だけではなんとも言えませんが、おそらく祖父自身が自分に厳しく、他人にも厳しい態度を取っていたのかもしれません。
その一方で、檀家さんには穏やかに接していたのかもしれません。
(あくまでも推測です)
お寺にこもって修行をすれば「さとれる」んだ。
単純にそう思っていましたが、人の内面はとても複雑なのかもしれません。
そもそも、「さとり」ってなんだろう・・・?
「さとり」の状態ってどんな感じなんだろう?
✧˙⁎⋆振り返りnote
そもそもわたしが「さとりたい」と思ったのは、こちらの記事でも書いているとおり、母の看取りがきっかけでした。
さかのぼること、2015年のこと。
9年前になります。
9年前のできごとや母が亡くなってからの月日はいろいろなことが起こるたびに気づきをもらい、私の心は「さとり」に興味を持ち、本当に多くの本を読みました。
4年前、ついにそのうちの運命の出会いとも言える一冊を購入。
その時に目にした本の1冊がこちら↓
2020年にこの本に出会い、文章の内容に惹かれ熟読。
あれから約4年。
ひととおり読書を終えた私は、「さとり」について考え始め、そして実践を始めました。
何を実践したか、というと・・・、
「自分の内面の観察」、です。
いわゆる・・・内観というやつ。
来る日も来る日も毎日内面観察。
最初の半年は、瞑想中心の生活。
ちょうどその頃世間は「おうち時間」を推奨期間中。
わたしにはちょうどいい「自分に向き合う期間」となりました。
その頃、不登校や発達障害などで、レッスンが思うようにできない生徒さんがわたしの元へ来るようになったり(その頃心理カウンセラーの資格を取得したこともあったからまさにタイミング)、またプライベートのおつき合いの中で、家庭の問題や自身の病気に向き合う人がいたりと私の環境がおのずと人間関係に向かうできごとに遭遇した、というきっかけもあり、自分の内面だけでなく、他人との交流の中に”人の内面”の観察、という貴重な機会をいただけたと思っています。
「わたし」というアイデンティティを手放すと
見えてくるのは、「わたしの本質」。
永遠の存在である、
「ほんとうの自分」なのです。
「わたし」「妻」「ピアノ講師」「メンタルコーチ」
「長女」「長男の嫁」
どんな呼び名でもくくることのできない、
純粋な「意識」が「ほんとうの自分」。
しかもそれは、
もともと、あるということ。
この世の中は、
自分を知るツールであるということ。
自分らしく生きるための表現の場(ゲームの場)であるということ。
ただ、それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、それだけ。
探究心に”火”がついたわたしは、
「さとり」を徹底的に探求したいと思いました。
そして、この本からたくさんの「気づき」をもらったので、
「さとり」についてわたしなりの言葉で綴っていきたいと思います。
わかりやすくお伝えするために、この本の引用もしながら書いていこうと思います。
「さとり」に興味がある人、
一度でも”一瞥体験”(いちべつたいけん)をしたことのある人、
日々瞑想をしている人、まったくそんな体験はないけど「さとり」たい人、ぜひ一緒に「さとり」を探求していきましょう。
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ここで、「さとり」の状態とはどういう状態なのか?
また、「さとる」といいことあるの?と疑問に思っている方のために、
少し書いておきたいと思います。
「さとる」とは・・・
「さとる」ことを言葉で伝えようと思っても、なかなかふさわしい言葉がみつかりません。
あえて言うならば・・・「あるがままであること」でしょうか。
これから書いていく探求の内容は、「さとり」へのメカニズムです。
「さとり」は脳では起きないから。
でも、脳が理解をするんですよね、わたしたちの場合は・・・。
なので、あえて言葉で表現して「さとり」のメカニズムを知っていくというプロセスになるんです。
まずは理解、そして体感へ・・・、
こんな感じです。
「さとる」といいこと・・・
生きるのが楽になる
背負っていた責任や義務から解放される
考え方が柔軟になる
人間関係がスムーズになる
起きていることに右往左往しなくなる
自我(欲)が減っていく
ものごと、できごとを俯瞰視できる
ネガティブな感情が減る
記憶に縛られなくなる
などなど・・・。
そして、ここで言っておきたい重要なこと。
それは・・・
「さとり」が人生のゴールではない、ということ。
「さとり」という状態も、人生の中の”ストーリー”にすぎない。
✧˙⁎⋆振り返りnote。
わたしたちの「現実」は、頭の中のイメージが引き起こしている、ということ。
ちょっとむずかしい解釈かもしれないけれど、これが腑に落ちたら現実が勝手に変わるかもしれない。
さとったら、何か壮大な”ご褒美”のようなものがあるのか・・・と期待しても、それほどでもないと思います。
上記にあげた「さとるといいこと」を体験できる、ということは確かにあると思います。
生きるのが楽になる。
これだけでも、人生が180度変わったように感じられる人も多いと思うので、一度でも「さとり」を体験すると、「またあの素晴らしい体験をしたいな」と思うのではないでしょうか?
でもなかには、欲がなくなると思い、
「人間っぽくなくなってしまう」とつまらなく感じる人もいるでしょう。
たしかに、さとると欲があまりなくなります。
でも、将来叶えたいことや夢がなくなるわけではありません。
むしろ、「使命」という点で、やりことは見つかるかもしれません。
内側と外側の境界線がなくなると、他人のためと自分のためがイコールになるのです。
「さとり」という状態をちょっと俯瞰的にみてみたら、
おもしろいことになるかもしれません。
生き方、そのものが変わる、かもしれません。
一緒に学んでいきましょう。
今日のnoteは、もう少し続きます。
ご興味あればこのままおつき合いくださいませ。
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序章。”もうひとりの自分”との出会い
まず、はじめは本書の序章から。
この本の筆者は、29歳になったばかりのある晩、自身が絶望のどん底にいると感じ、あらゆるものが無意味に思え、この世界全体を呪いたいほどの感情に囚われていました。
しかし彼は、自分自身とは異なる存在がいることに気づきました。
こんな声が聞こえたそうです。
そしてこの出来事は、運命の転機となったのです。
「わたしの本質」=「ほんとうの自分」であること。
「純粋な意識」であること。
わたしたちはそれをすでに、
”持っている”。
「心の平安」を実感できないのは、
わたしたちの思考の雑音がうるさすぎるから。
思考の声=「ニセの自分」
頭だけで理解しようとせずに、心の奥で、「そうそう!!」と共感するところに注意を向ける。
すでに知っていることを思い出す。
そのお手伝いができれば、と願っています。
背負っていた「荷物」を下ろすことができる。
自分が変わる。
(変わりたくない人はここで離脱してくださいね)
自分が変わると、周りも当然変わる。
今の自分に満足していない人や、現状を変えたい人、人間関係に悩んでいる人、自分をもっと知りたい人など、「いま」の自分には何かが足りない、と感じている人にぜひ読んでいただきたいと思っています。
今日も”愛”あふれる一日をお過ごしくださいませ。
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「さとり」とはまさに”差”取り。 人やものごととの”境界線”をなくしていくことで、人生がイージーモードになります。 客観的な視点でものごと…
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