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私が『アダルトチルドレン』であることに気づいた話


親友Nちゃんの家族


幼馴染であり親友であるNちゃんが、中学時代の部活仲間の結婚式の後、「うちでごはん食べる?」と誘ってくれた。

Nちゃんは、幼稚園の年中で知り合い、小1でも同じクラスになった。入学式では、偶然となりで手を繋いで入場し、嬉しかったのを覚えている。それから、Nちゃんのお家や、家の前のお庭で毎日のように遊んだ。晴れの日も雨の日も、しょうもない話でゲラゲラ笑いながら帰るのが、毎日楽しかった。

大好きなNちゃんは、小2のときに転校した。転勤族だったのだ。離れていても、当時は手紙やファックス、電話で、年に数回、近況を報告し合ったり、誕生日を祝ったりした。

6年生のときの手紙のやりとりで、Nちゃんがこっちに戻ってくると知らせがあった。

その通り、Nちゃんは、中1のときにまた、私の地元に戻ってきた。嬉しかった。そして、同じ部活に入った。

そんな、青春時代を共に過ごしたNちゃんの家族と、ある日、一緒に晩ごはんを食べた。当時、私は29歳だった。

Nちゃんにとっては、まるで、いつもの家族の風景。
お父さんが作ってくれたごはん。お箸を食器棚から出すNちゃんや妹。料理を運ぶお母さん。みんなが席について、一緒に「いただきます。」と言って、ごはんを食べた。

お父さんはパスタを作ってくれた。「これ美味しいです!」と、私がいうと「砂糖をほんの少し入れると、なんでも美味しくなるよ。」とコツを教えてくれた。Nちゃんのお父さんは、昔から気さくでおもしろい人で好きだった。昔と全く変わっていなかった。

確か、近況や昔話、何気ない話をして、笑った。みんなでごはんを食べながら、私の話も、NちゃんとNちゃん家族みんなが聞いてくれた。Nちゃん家族にとっては、なんら変わらない日常。しかし、私にとっては、とても新鮮だった。

(これがいわゆる “家族団欒”  というやつか。)
と思った。

私の家族の日常とは、まるで違う風景だった。

私の家族

私の子ども時代の我が家は、夕方になると、父が「晩御飯、何?」と母に聞いた。母は、怒り気味に「今作ってる!」と、答えになってない答えを返した。晩御飯は、兄は偏食、私も好き嫌いは多い方だったので、年齢が大きくなるにつれ、みんなで同じものではなく、別のものが出てきていた日もあった。テレビを見て笑っていた記憶はある。みんなで食べていた記憶もあるが、家族団欒のような、みんなで楽しく会話して食べていた記憶は、正直ない。


私の母

私は、昔から母が嫌いだった。母は、私が小さい頃から、毎日のように父の愚痴を私にこぼしていた。「また新しいパソコン買ってる。」「車を買うなんて聞いてない。」「お金ないのにまた…」「自分は何もせんのに…」そんなことを毎日のように言っていた。

私が、自分の話を母にしても、最後まで聞いてもらえず、いつの間にか母の話にすり替わっているのも日常で、そんなところも嫌いだった。父が「今日の晩ご飯、何?」と聞くと、母は「今、作ってる!」と怒りながら答えた。こういう会話が噛み合わないことは、私にも日常的にあって、母とは合わなかった。


私の父

私は、父親っ子だった。私が小さい頃、父は私の大好きなぬいぐるみのしっぽを、器用に動かして笑かしてくれたり、絵しりとりをしたり、テレビで相撲を見てどっちが勝つか予想したり、体を使って遊んでくれたりした。もちろん、思春期は父親が嫌になった時期もあったが、中学の途中くらいから、父親に市内の古着屋さんに連れて行ってもらって、また関係は戻った。

父の仕事はグラフィックデザイナー。昔は市内で事務所を借りて仕事をしていた。バブルのときは、そこそこ収入もあったらしい。あるときから、事務所を借りるのをやめて、家で仕事をするようになった。リビングの食卓の横に、父の仕事用のパソコンがあった。そこで毎日仕事をしていて、ときどき母にチェックを頼んでいた。リビングで仕事をしているので、リビングは安らげるものではなかった。

自転車が趣味の父。当時家にはマウンテンバイクが私たちきょうだいの分も合わせて、5台ほどあったと思う。父は趣味にお金を使う、自由人だった。私もそんな父に似ているところがある。

母が離婚を申し出たとき、父は特に反対もせず、離婚届を書いたらしい。私は、家で自分のペースで仕事をしている父を見てきていたので、ちゃんと自分で仕事をとってきてるのかを聞いた。母が金銭面を理由のひとつに離婚を申し出たからだ。父は、そこから知り合いのツテで会社勤めし始めた。おそらく人生初めてのサラリーマン。それでも時すでに遅し。今は一人暮らしをしている。

私の兄


兄は2つ上。診断こそされていないが、おそらく自閉症。兄は小さい頃から、いじめられっ子だった。勉強はよくできた。運動神経はよくない。学校は毎日行っていた。まじめだった。でも、空気が読めない。コミュニケーションが苦手で、からかわれる。同じ学年のいじめっ子の友だちに騙されて、友だちのゲームを高額で買わされたりもしていた。同じものを好んで食べ、毎日家でゲームをしていた。小さい頃から、うまくいかないことがあると、すぐにキレていた。ゲームがクリアできないときには、物に当たる。大きな音が鳴り響く。叫ぶ。マンションの外まで聞こえていたと思う。そんな兄を、父はときどき怒鳴った。私も、怒られて当然だと思った。

中学生くらいから、きょうだい別部屋になったが、毎日、隣の部屋から鳴り響くモノに当たる音、叫び声が嫌だった。なぜうちの親はゲームを取り上げないの?と思っていた。

兄は専門学校(たしか)を出て、1、2年ほど働いたが、おそらくコミュニケーション面がうまくいかず、仕事を辞めた。今は30台後半。仕事を辞めてからは、スーパーでパートを続けていた。最近やっと正社員になった。親が離婚してからは、母の家に移り住み、2人で暮らしている。

昔と変わらず、部屋に篭りっきりで、用事があるときしか出てこない。私の息子が生まれてから、もう4年になるが、一度も挨拶してくれたことがない。部屋にいても出てくることすらない。顔も合わせたがらない。母宅に私と息子が泊まりにいったとき、兄しか家にいなかったので、「お風呂もう入った?」と必要最低限で話しかけてみたが、「なんですか!?」と敬語でキレられた。息子は「怖い…。」と小さな声でつぶやいた。


私について

私は、昔から、人を笑わせるのが好きだった。学生時代は、みんなに優しくが私のモットーで、いろんな子と話したり遊んだりしていた。明るい系の友だちとも、おとなしい系の友だちとも、話していた。しかし、困ったことに、修学旅行や宿泊系のイベントになると、一緒にグループを組む人がいなかった。すでにできているグループの中に入れてもらうことばかりだった。(あーー私、絶対邪魔よなぁと)と思いながら、入れさせてもらっていた。

大学では、キャンプの企画や運営、引率、整備のボランティア活動をした。私は、子どもを引率するリーダーや、キャンプファイヤーの盛り上げ役をすることが多かった。みんなを楽しませることに誇りを持っていた。

しかし、大学を卒業して、その明るいキャラは一回電池切れをした。(本当の自分ってなんだろう)と思うことが増えた。

教員になったきっかけは、バイト先でたまたま目が合った子どもが、ニコッと笑ってくれて、そこから子どもに携わる仕事に興味を持ち、進学し、教員となった。

子どもの頃こそ、病気もせず、学校を休んだのは祖父の葬式くらいだった。

社会人になってからは、職場の対人関係でストレスを抱え、身体や心に不調が出た。適応障害と言われた。

仕事は異動を機に人間関係にも恵まれ、楽しく働いていた。

20台後半で結婚するも、夫のモラハラに悩まされ続けた。発声障害、カサンドラ症候群、うつ状態、メニエール病、などを経験し、現在も治療している。

今思えば、私は自分の家族のように不機嫌な人がいる環境や、場の空気が悪くなるのが苦手で、その場を盛り上げることをいつも考えていた。アダルトチルドレンでいうところの、ピエロタイプだと思う。


親の離婚

うちの親は、熟年離婚した。

私が大学を卒業してすぐ、母に「話がある」と言われた。私は、(もしかして、一人暮らしさせてもらえる?)と、淡い期待を描いていたが、その期待は、まるでハズれた。

リビングで2人の時に、母は椅子に、私は確かテレビの前の床に座っていて、こう告げられた。

「お父さんと離婚する。」「家を出る。」「もう家も見つけてある。」「あなたが短大から編入したいと言ったときは、あと2年も耐えないとあかんの?って、思って最悪やった。」と。

思考が追いつかない。

でも、前々から、父と母が仲の良いところは見たことがなかった。兄と私が自立したら、この2人はどうやって過ごすんやろう?とは思っていた。

子は鎹(かすがい)。

そんな関係で成り立っていた、うちの家族。

私が大学を卒業するまで、いわゆる “家族” である状態が成り立っていたのは、母の単なる忍耐によるものだったのだ。

とはいえ、なぜか、離婚はしないと勝手に思っていた私は、ショックを受けた。

その日から数日間、私は家出した。

友だちの家に泊まり、話を聞いてもらった。

泣いた。

けど、いくら泣いても、結論は出なかった。というか、母の結論はもう出ている。どうしようもできないことに、変わりなかった。

これ以上、友だちの家に居座ることはできないと思い、家に帰った。

それから間もなく、父と仲が良くなかった兄は、母の家に移り住んだ。

私は、父と家に残った。


アダルトチルドレンとは

・子どもなんだけど、子どもらしく生きることを許してもらえなかった
・自分らしくいる場合じゃなかった
・親のために何かしなくてはいけなかった
・感情や体のお世話をしなくちゃいけなかった
・家庭の維持のために自分がバランサーになっていた
・頑張ってないと自分に価値を感じられない
・誰かの役に立たないと自分の価値を感じられない
・誰かの評価を気にして生きてきた


心理カウンセラー 橋本翔太さんYouTubeより

どれもよく当てはまっている。こちらのnoteもアダルトチルドレンについて書かれていたので、引用させていただいた。

沢野まもるさんnoteより


機能不全家族

私の家族は、いわゆる機能不全家族だった。我が家の場合は、親の不仲。家族団欒というものを知らずに私は生きてきた。それが普通だと思っていた。

父親も、母親も、兄も、老後は誰が面倒を見るんだろうと、心配が尽きない。そうやって、決して元々しっかり物ではない自分が、しっかりするしかなかった。それは、やがて体や心に不調をもたらした。

結婚相手は、なぜか、歴代彼氏の中で一番性格の悪い人を選んだ。(歴代彼氏とはほとんど喧嘩をしたことがなかった。)性格は成長と共に後から変わるだろうと、なぜか、すぐに不機嫌になる、問題だらけの人と、私は結婚した。

息子に出会えたから、結婚したことに悔いはないが、いまでもモラハラ夫との離婚問題で戦っている。


アダルトチルドレンのストレスのコップ

アダルトチルドレンの人は、ストレスを受け止めるコップの容量が、小さいのだと思う。親の仲が良く、困ったときに助けてくれる家族が身近にいたら、多少のストレスに耐えられる容量のコップが出来上がっていたのだろう。コップの形や、容量は、育ってきた環境によって、十人十色、人それぞれ違うのだ。

コップに溜まるストレスは、表面張力のように、ギリギリまで水を張って耐えることができる。しかし、どれだけ頑張っても、最後の一滴(ストレス)がポトンと落ちた瞬間、中の水が溢れ出し、突然決壊するのだ。


そうして、大人になって、自分がアダルトチルドレンであることに気づく人は多いのかもしれない。

「普通の家族だったら…」何度そう思ったことか。元々のコップの容量が育った家庭によって違う。スタートがまず違うのだ。

そんな中で、頑張ってきた自分を、自分で褒めようと、最近やっと思うようになった。


さいごに


これは、アダルトチルドレンの人に向けてでもあり、自分に向けてでもある。

どうか、自分で自分を褒めてあげてください。スタートが違う中で、あなたは十分、頑張ってきたのだから。自分の体と心を、どうか大切に。頑張りすぎないを、頑張ろう。





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