日本人の「死」を記録した戦争画・藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」~戦争画よ!教室でよみがえれ㉒
戦時中に描かれた日本の「戦争画」はその出自のため未だに「のけ者」扱いされ、その価値を語ることを憚られている。ならば、歴史教育の場から私が語ろうではないか。じつは「戦争画」は〝戦争〟を学ぶための教材の宝庫なのである。これは教室から「戦争画」をよみがえらせる取り組みである。
目次
(1)戦争画とは何か?
(2)わたしが戦争画を語るわけ
(3)戦争画の鑑賞法
(4)戦争画を使った「戦争」の授業案
(5)「戦争画論争」から見えるもの
(6)戦争画による「戦争」の教材研究
(7)藤田嗣治とレオナール・フジタ
(6)日本人の「死」を記録した戦争画・藤田嗣治「サイパン島同胞臣節を全うす」ー戦争画で学ぶ「戦争」の教材研究④
私はこの『サイパン島同胞臣節を全うす』を同じ藤田の『アッツ島玉砕』と比較して見てしまう。どちらの絵にも戦争のリアルと本質を感じるからだ。
どちらの絵も見ていて息苦しくなる。だが、強いてどちらが「苦しい」かと言えば、間違いなくこの『サイパン島同胞臣節全うす』である。理由ははっきりしている。この絵にはたくさんの女性と赤ちゃんが描かれているからだ。
この作品を鑑賞していて感じる「感動」は、民間人が戦争に巻き込まれていることへの怒りであり、女性が苦しんでいることへの怒りであり、さらに小さな命がこの惨劇にさらされていることへの怒りである。
まず、画面左側の銃を構える男性の姿が目に入る。上着がないので民間人に見える。だが、もしかしたら軍服が破れてしまった兵士なのかもしれない。銃口が向いている左にはアメリカ軍が迫っているのだろう。
その兵士らしき男性の足下には少年が座っている。しかし、この少年の顔には恐怖もなければ不安もない。キッと前方の敵を見据えている。その隣に座っているのはこの子の父親だろうか。麦藁帽子を被っている。民間人であることは明らかだ。岩の上で同じく諦観したかのような安らかな顔で前方を見ている。
この少年を含む3人の男の左前方にはここにようやくたどり着いたかのように3人の男性がいる。これで男性は計6名である。
ここで絵の後景に目をやると同じように左から右方向へ逃げようとする集団が見える。さらに視線を右へと移すと右奥の日の丸がはためく丘の周りにも小さい集団があることに気づく。どうやらここが「最後の砦」らしい。
視線を下げて画面下部を見る。そこには夥しい死傷者が横たわっている。この生き地獄の中で呆然と立ちつくす男や腹切りをしようとする男、銃口を自分の口にくわえて今まさに引き金を引こうとする男の姿もある。
先に見た6人の男の右後ろにはたくさんの女性と子どもがいる。つまり、6人の男たちは女性と子どもの「楯」となっているのである。
女性たちを見てみよう。その姿はさまざまである。
死にゆく人に手を合わせる人、抱き合う人、男性を介抱する人、仲間を背負い竹槍をもって状況を見つめる人、人形を抱く少女、倒れた女性の傍らで泣く赤ちゃんの姿、結んでいた髪を解く人、そして叫びながら断崖絶壁から身を投げる人・・・。
しかし、私が一番驚くのはこの状況下にあっても自分の乳房をわが子に含ませて乳をあげる女性である。まだ生きることをあきらめていないのか、それとも母親としての最後の務めをはたそうとしているのか-。
『アッツ島玉砕』は兵士同士の大きな一塊の白兵戦だったが、この『サイパン臣節全す』3つ塊に分割できる。銃を構える男、竹槍の女、叫ぶ女-この3名の人物をランドマークにして3つの場面に分かれているのである。左から、第1幕は最後まで抵抗する男たち、第2幕は最後の時を迎えようとする女たち、そして第3幕は絶望の断崖である。
『アッツ島』が兵士対兵士の戦闘のリアルを伝えているとすれば、この『サイパン』はまさに戦争における日本人の「死」のリアルを伝えていると言えるだろう。少なくとも作者・藤田嗣治の頭の中にはこのテーマが絶対にあったはずである。その使命感なき者に女性と子どもたちを巻き込むこの地獄絵図を描けるはずがない。
私たち日本人が決して忘れてはならない戦争体験を残さねば、と藤田は思ったに違いない。
この絵の舞台となったサイパン島はマリアナ諸島の中の一つの島だ。
サイパン島が軍事戦略上、最重要な島であったことは以下の証言でわかる。
「サイパンを失ったことは全く万事休すでした。私はサイパンの喪失をもって、これこそ戦争の転機であり、かつ日本にとって非常に深刻な、もはや取返しのつかぬ打撃であったと考えました」
これは戦後、米国戦略爆撃調査団のヒアリング時に海軍・軍令部総長だった永野修身元帥が語った言葉である。
なぜ万事休すなのか?
日本本土を直接空襲できる位置にあるからである。これ以後、日本列島はサイパン島を飛び立つ大型爆撃機による空襲にさらされるようになる。それは民間人を狙う無差別爆撃であり、明確な国際法違反だった。
このマリアナ攻略作戦に動員されたアメリカ軍は艦船644隻、地上兵力はなんと12万8千人。そのうちサイパン方面には7万8千人が上陸した。迎え撃つ日本軍守備隊は3万2千人。数で劣る日本軍だがサイパンの地形を利用して持久型防御戦に持ち込み、巨大なアメリカ軍を苦しめた。
戦闘は凄惨なものとなった。アメリカ軍・第2海兵師団のトッド中尉は米軍兵士の死体を見た時のことを次のように証言している。
「もし故国の人びとが、これらの死体がここへはこばれてきたときの状態を、一目見ることができたならば、はたして彼らがこの戦争をつづけることを欲するかどうかわかりませんね」「ほんとうの英雄は、ここで私のところにいる六名の海軍医療隊ですよ。彼らは海中にただよってぐじゃぐじゃになった死体をはこんでくるのです」(ロバート・シャーロッド著・中野五郎訳『死闘サイパン』日本リーダーズダイジェストp186~187)
最終的にサイパン島を含むマリアナ群島全体の戦闘での死傷者数は米軍の死者2万6千名。対して日本軍は5万5千名だった。
サイパン島での戦闘の痛ましさは民間人が巻き込まれたことである。とくに島の北端で集団自殺を遂げたのはよく知られている。ただし、よくある俗論として軍隊が民間人を巻き込んだ、軍隊が自殺を強要した等の話があるが、これはまったくの事実無根である。
サイパン島で戦闘を体験した菅野静子さんの証言を見てみよう。菅野さんは当時18歳。島に残ることを決めると、さらに民間人の集団からあえて離れて軍隊の中に飛び込み、隊長を必死で説得。自ら志願看護婦となるという特異な経験をしている(菅野静子『サイパン島の最期』出版協同社 昭和34年)。
「野戦病院というから、テントぐらいは張ってあるのか思ったのに、ただ地ベタに寝ているだけだ。それが地面も見えないほど、隙間なく、いや重なり合うほどに、大勢だ。少し離れたところで、別の軍医さんが、衛生兵たちと、傷兵の手当をしいている。苦しげなうめき声・・・、水を求める声・・・、異様な悪臭・・・、凄さまじい光景だ」(p90)
そして「お手つだいしたい」と言う静子に対して、隊長は「ここは軍隊だから、民間の人を入れるわけにはいかない」「ここは軍隊なんだ。だから、ずいぶん辛いこともあるし、ある場合には、全員死を覚悟せねばならないことだってあるんだよ」と拒絶し山を降りるように言う。だが、静子の「私は女ですけど、敵と戦う覚悟も充分できています」と繰り返し懇願する姿に根負けして志願看護婦になることを認める。
どこに「非道」な日本軍の姿がどこにあると言うのだろうか?戦後、静子さんは次のように回想している。
「血と膿と蛆と泥にまみれて死んでいった兵隊さんでありますが、人間精神の美しさを、花一杯に飾って死んでいった多くの兵隊さんたちを、私はこの目で見て知っております。(中略)第一に、私は隊長のことを思い浮かべます。長い戦場生活に在りながら、最後まで人間の精神を失わなかった人のように私には思えます。もう戦う力のない傷兵や、何も知らない私を助けようとして、隊長は、どのように苦悩されたことでしょうか」(p212)
ちなみにほぼ同じ内容で子ども向けとして菅野静子『戦火と死の島に生きる 太平洋戦・サイパン島全滅の記録』(偕成社)がある。ぜひとも教室に置いてほしい一冊だ。
アメリカ軍はサイパン戦でたくさんの民間人が「兵隊と一しょに当然戦火に捲きこまれる」ことは予想し「何とかして戦火の外に出し、出来るだけ犠牲を少なくするにはどいうしたらいいか」と考えていたと言う。アメリカ軍のビラ配布、拡声器による呼びかけそして抑留所や医療対応がそれに当たる(静子さんも自決時に手榴弾が不調で九死に一生を得て助かり、アメリカ軍に保護されている)。
私はこのアメリカ軍の対応とその人道主義に嘘はないと思う。だが、同時にその欺瞞に怒りも覚えるのである。
なぜなら、このサイパンを奪取したアメリカ軍はここを基地としてB29を日本本土へと送り込み、軍事施設とは何も関係のない民間の一般居住地を爆撃している。丸腰の民間人、女性、お母さんと赤ちゃん、子どもたち、老人らを焼夷弾による火焔地獄にさらして虐殺したのである。そして原爆の投下。
人道主義が米軍にあったというのは嘘ではないにしてもそれは小さな小さな一面にすぎない。やはり私たちは日本人を大量虐殺した無差別爆撃の発進基地・サイパンの地名を忘れてはならない。そして、本土の日本人を守るために命を投げうった日本兵と日本島民がいたことも忘れてはいけないのである。
これは菊畑茂久馬による空襲を描いた1枚。タイトルは『天河十四』。菊畑は空襲の夜に逃げまどう中、見上げるとこんな風に空が一面真っ赤に染まっていたのだと言う。まさに火焔地獄である。