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ベルリンスタジアムに響くムラコソコール~日本が世界に誇るJアスリート・道徳教科書に載せてほしいスポーツエピソード(1)

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自国の日本人アスリートたちの姿に感動を受けた経験は誰もがもっていると思います。

これから私が紹介する日本人アスリートのエピソードはよく知られているものもあるし、すでに一度道徳の教材になったものもあります。もちろん、初めて知ったという方もいらっしゃるかもしれません。

そうしたものの中から、私自身がもう一度リサーチし直し、教材として再構成したものを提案したいと思います。

道徳の教材として使っていただければ幸いですが、朝の会や隙間の時間等にそのまま読み聞かせしていただいてもかまいません。一人でも多くの子どもたちに「自分の国にはこんな素晴らしいアスリートがいたんだ」という感動を味わってほしいと思っています。

第1回はベルリン五輪で10000m・5000mに4位入賞した村社講平選手のエピソードです。

なお、お急ぎの方はもくじ1を飛ばして2の教材のみお読みいただいてもかまいません。

1 はじめに ムラコソコールとの「出会い」             2 教材 ベルリンスタジアムに響くムラコソコール          3 おわりに 村社講平と日露戦争&動画情報             

1 はじめに ムラコソコールとの「出会い」 

私が村社講平選手のことを知ったのは、はるか昔の小学校5年生だったと記憶しています。偶然、あるテレビ番組を見ました。それは出演している小学生が昔のオリンピアンを訪問してインタビューするという内容でした。

出演していたレジェンド・オリンピアンは日本水泳初の金メダル・アムステルダム大会200m平泳ぎの鶴田義行、ロサンゼルス大会三段跳び金メダルの南部忠平、日本女子選手初の金メダル・ベルリン大会200m平泳ぎの前畑秀子、そして今回取り上げる村社講平の4人だったと記憶しています。

子ども時代の私が「えっ?」と疑問に思ったのは、他の3選手がすべて金メダリストなのに何で4位の選手が?というものでした。しかし、4人の中で誰よりも感動したのがこの村社選手のエピソードだったのです。

テレビ画面に映る当時のレース(これがベルリン五輪記録映画「民族の祭典」からのものであると知ったのも大人になってからです)。スタジアムに響く「ムーラーコソ!ムーラーコソ!」の大合唱に小学生の私は鳥肌が立ちました。長身のフィンランド3選手と子どものように小柄な村社選手のデッドヒートを見て、スタジアムの観客のほぼ全てが小さな村社選手に声援を送っていたからです。そこは日本ではなく異国の地なのです。

いわゆるジャイアントキリングは起きませんでしたが、村社選手の姿に全世界の人々が心をうたれた事実に子ども時代の私は感動しました。この子ども時代の経験がこの教材を作った動機です。

2 教材 ベルリンスタジアムに響くムラコソコール 

 

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 1936年に開催された第11回ベルリンオリンピック。
 大会2日目の8月2日。
 10万を越える大観衆が集まったオリンピックスタジアムでは、陸上・長距離種目の10000m決勝がスタートとしました。
 
 この種目に出場した選手の中にひときわ小柄な日本人選手がいました。
 身長162センチ、体重50キロの村杜講平選手です。しかも、当時は日本選手の中では31歳の最年長選手でした。
 村杜選手は1905年宮崎県生まれ。
 身長は低くて体重も軽いクラスで一番小柄な少年でした。この少年が中学生の時に陸上競技の魅力にとりつかれ、ついには日本の代表としてオリンピックに出場できるまで成長したのです。
 
 各国の選手たちがやや慎重に走る中、村杜選手はいきなり先頭を奪います。
 しかし、無理をしているわけではありません。マイペースを守り、3000mまではあっさりとトップで通過です。
 すると、今までは聞こえなかったスパイクの音が、村杜選手の耳に入り始めました。その足音は長距離王国・フィンランドの3選手でした。
 フィンランドのサルミーネンは身長191センチ、アスコラとイソホロも185センチ以上ある村社選手から見れば「巨人」のような選手です。
 3人は村杜選手のうしろにピッタリとついたまま先頭に出ようとはしません。そのまま半分の5000mまで村杜選手がトップです。いよいよ勝負は村杜選手とフィンランドの3選手に絞られました。
 6000mを越えたところで、ついに村杜は抜かれてフィンランド勢3人が先頭に立ちました。
 ここから村社選手とフィンランド3選手の激しい攻防が始まりました。 
 すると突然、スタジアムの観衆が総立ちとなり、どこからともなくムラコソコールがわき上がったのです。
「ムーラーコソ!」
「ムーラーコソ!」
 ここベルリンはヨーロッパの国・ドイツです。
 村杜選手はいわば無名ランナーでしたから、観客もレースが始まるまで「ムラコソ」の名前は知らなかったはずです。
 意外なことに大観衆は日本の村杜選手を応援してくれたのです。
 
 当時、ベルリン五輪を取材した轡田さんはこう言っています。
「村杜抜くとき、3人は順々に左ひじを上げて、腰もすれすれに通り抜ける。ひょいひょいと左ひじを上げるだけで村杜の頭の上を難なく通過していく。反対に村杜が抜くときは大きく外回り。スタンドは総立ち、躍起の声援も、これにはさじをなげたような嘆声(なげいたり感心したりするときに出す声)と口笛だ」

 7000mでサルミーネンがトップ。
 しかし、8000mで再び村杜選手が先頭を奪い返すとスタンドが揺れるような大歓声。そのまま9000mまで、村杜選手はトップを守り続けます。
 勝負はラスト1周。
 最後の1周の鐘の音が鳴り響くや、フィンランド3選手は驚異的なスパート。村杜選手はこれに一瞬遅れるとその差はみるみる広がります。
 残念ながら、村杜選手は大歓声もむなしく4位となり、メダルを逃したのです。
 
 そんな村杜選手を選手団は「村杜さん、よくやってくれた」と大粒の涙で迎えてくれました。村杜選手は「たかが4位に過ぎない私に、このように関心をもってくれたのは、私が相手を恐れずに積極的レースをしたからだろう」と言っています。

 それから16年後の1952年。第15回ヘルシンキ大会で「人間機関車」と呼ばれる超人的な長距離ランナーが現れました。チェコスロバキア(※)のエミール・ザトぺック選手です。ザトペック選手は五輪の5000m、10000m、マラソンの長距離種目3冠を成し遂げた唯一選手です。
 じつは、このザトペック選手の中学生時代のあこがれの選手があの村杜選手だったのです。ザトペック選手は中学生のときにベルリン五輪の記録映画で10000mレースを見ました。そして「自分もあんな選手になりたい」と村社選手を自分の目標にして、オリンピック選手をめざしたのです。

 1981年4月。
 日本で行われた市民ランナーのためのマラソン大会で「私のヒーローであるムラコソさんと走りたい」というザトペックさんの想いがかないました。引退した58歳のザトペックさんと75歳の村杜さんの2人は5キロの道のりをゆっくりと楽しみながら走る機会をもつことができたのです。
 レース後にザトペックさんは「私の人生で一番幸福な日だ」と語っていたそうです。

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※教材の冒頭画像は先頭・村社、以下はフィンランド3選手。最後の画像は先頭がザトペック。なおチェコスロバキアは当時。現在はチェコとスロバキアはそれぞれ別の国として分離独立している。

※この教材は「特別の教科・道徳」の内容「D主として生命や自然、崇高な物との関わりに関すること」ー「感動、畏敬の念」「(21)美しいものや気高いものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつこと」(小学校5・6年及び中学校)に該当すると考えています。

※発問例「村社選手がザトペック選手のヒーローとなったのはなぜでしょう」「わたしたちが同じ人間をヒーローだと感じるのはどんなときでしょうか」

3 おわりに 村社講平と日露戦争&動画情報

教材文にある「村杜選手は1905年宮崎県生まれ」ーここに着目すると村社さんの「講平」という名前に、もしや?と気づいた方がいるかもしれません。

村社さんの生まれは1905(明治38)年8月29日です。その6日後の9月4日にあのポーツマス講和条約が調印されたいます。前年の1904年2月に始まった日露戦争の講和会議が翌年の8月に行われていたのです。

そうです。村社さんの「講平」という名前は、講和条約の「講」と平和の「平」なのです。じつは村社さんのお父さんは講和条約会議・全権の小村寿太郎と同じ宮崎県日南市飫肥(おび)町の出身です。息子に同郷の小村の偉業を忘れさせないために付けた名前なのです。

日露戦争の学習では、講和条約を不服とする「日比谷焼き討ち事件」などを最後に取り上げることが一般的かと思いますが、このエピソードは庶民の間でポーツマス講和条約が「偉業」として受け止められていたことがわかります。

道徳でこの教材を教えた後に、歴史で日露戦争を取り上げるのもいいかもしれません。

なお、以下のユーチューブでベルリン大会10000mのレースが見られます。ニコニコ動画にもあります。

<参考文献等>

*村社講平『長距離を走りつづけて』(ベースボール・マガジン社 1976年)

*HP「孤高の長距離走者ー村社講平」『オリンピック・パラリンピックアスリート物語』(笹川スポーツ財団) 


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