〜直腸付近リンパ摘出ストーマ手術入院 実録〜⑧
ー手術後 7日目ー
「鉛筆がない...おとしたかねぇ」
深夜1時をもうすぐむかえようとしてる。
常夜灯が薄暗く光る中、何十分もカサカサ
ガサガサ音をたてる。
せっかくお隣さんが寝言を言わず頑張って
熟睡してるのに斜め向かいの患者さんが時間を
考えず色んな音をたてる。
しまにいには飴玉を転がし噛む音さえ
聞こてきた。
そう言えば今日、看護師さんに飴玉がいっぱい入った袋を買ってきてと頼んでたな...
鉛筆ぐらい落とした音もしたんだから
床にはあるだろう。
明日の朝探せばいいじゃないかと思い
つい深いため息が出てしまう。
そうこうしてるうちに、隣の患者の寝言が
叫びでた。
頑張ってまた寝るか。
入院する時、耳栓必須だが私は皮膚がかなり
弱い方だ。耳も弱い。
しかも私はゴムアレルギー。
耳栓はだいたいゴムだし、たとえゴムじゃなくても長時間耳の中に異物を入れておくと、
耳鼻科に、お世話になることが必須だ。
周りに気にしながら手術してから全く風呂に
入ってないからか妙にサラサラしてるが、
皮脂脂せいか脂でペタリとなった髪を
遠慮がちに掻きむしった。
余計な事まで言ってしまった。
後悔先に立たず。
正にそのとおり。
眠気眼と戦いながら朝の6時をまわり、
みんな起き出したので無理して起きて
トイレに行き、ついでに血圧を自分で
測る帰りだった。
毎朝、毎夜、体温と血圧計りは必須だ。
看護さんに呼び止められ眠さでイライラも
あったと思う。
「今日は眠れました?」の一言に
スラスラと風呂に体に管が入ってるからまだ
風呂に入れなくて、あらゆるとこが痒いだの
ストーマの事だの話したのは、まだ良かった。
しかし口がスラスラ止まらなかった。
「隣の方、先生に寝言が酷いこと言ってないみたいだから周りが助言してあげた方がいいですよ?じゃないと退院しても本人も周りの世話する人も可哀想...またそれで病院に入院しなきなゃならなくなるかもだし」
話した後は、しまったぁああ!
と看護師さんの顔を見てハッと我にかえった。
後のまつりである。
隣の方は耳が悪いせいでか、
かなり声が大きい。
少し前に「色々あって娘を嫌いで...」と看護師さんに言うのを聞いて尚更、気になって
しまっていた。
寝言がひどい 原因
と何でも知ってるであろう現代の英智に
検索を気になってしまって、
ついついしてしまった。
私には重いスマホを両手に抱えながら
覗き見る。
寝具が悪いといけないのと、ハッキリ言わなきゃいけない事を言えない方がなりやすく
ストレスをかかえるので日記を書いたり愚痴を書いたりするノートがあるのがよい。
ヨガなど趣味を見つけたりしてストレスを発散しましょう!と書かれてあった。
薬じゃないじゃん...
周りが助言したら改善するかもじゃん!
とか思っていたせいで今に至る。
隣の患者や看護師にとっては
余計なお世話だろう申し訳ない。
看護師さんの顔を見た時、目が遠くをみて
ウゼェなぁと言葉が出てきそうだったのを思い出して病室のベッドで反省しながらも、
どうしようもなかったんや!
と最終的な自分の気持ちを言い聞かせた。
じゃないと自分の体が悪くなる。
一応、自分も病人なので自分勝手でごめん!
娘が嫌いで...
私が自分の親に言われたら
立ち直れない気がする。
私の親は隣の患者より若いと思うが、
それなりに歳だ。
病院で詳しい検査をしてないが父も母も
今のところ大きな病気はしていないようだ。
しかし、隣の患者と母を重ねて見てしまった。
人間だからいつどうなってもおかしくない。
もしも、私が今の状態で母が入院しなきゃいけなくなったら...母を心配に思う反面、
私の事で嫌になったり、体に影響うけたり...
いや、違うな...
私を嫌いになったりしないだろうか?
だな。
こんな私を病気になっても受け入れてくれるだろうか?
人はそれぞれ十人十色で人生もいろいろ。
みんな辛いことは必ず1つはあるはずだ。
私は親の愛情をいっぱい貰った方だと思う。
人にもハッキリと言えるほどに。
というか、昔ある友達が
「時々、そこまでするか?てほど子供に
愛情すごいよね。」
と私の親の事を言っていた時、親に悪いが
しっくりきた。
確実に親にそうさせたのは自分のせいだが。
私はとにかく自分の妹と全く違い、小さい頃から体が弱い方で、特技もなく、勉強も運動も
できる方ではなかった。
というか、できない事が多かった。
そんな親は、特に母が心配した。
父方のおばあさんに相談したほどだ。
私が行きたい!やりたい!ていう習い事は全て習わせてくれた。
当時、踊るバレーなんて習う所少なかっただろうに、1回見学してすぐ私は美しさというか
華やかさに心奪われ自分の体の硬さも酷かったため習いたい!と言ってすぐ習わせてくれた。
だがすぐ満足したのか結局辞めてしまった。
他の習い事もだいたいそうだ。
行きたいと言った旅行は殆ど連れて
行ってくれた。
私が鼻血をいっぱい出した時は怖くなったのか県内で1番でかい病院に連れて行って検査したり、体調が悪かったりしたらすぐ病院に、
連れてってくれた。
「お母さん、そんなに心配しなくても
大丈夫ですよぉ」
と看護師や先生に何度か側で聞いた事がある。
またある時は小学の時に私の同じクラスほぼ
全員に私が酷いイジメられてると知ると、その日に先生に電話して「裁判起こしてもいい!」と
電話ごしに怒っていた。
ある時は、高校生になっても卒業して大人になっても夜帰るのが遅い!と心配しながらも、
いつも暖かい美味しい料理を用意してくれてたし、またある時は福岡で一人暮らしを始めて
数日間連絡がつかなかったら県が違うのにも
かかわらず実家から心配で、
すっ飛んで来た事がある。
私の妹は赤ちゃんの時、可愛くってしかたがなくて、世話できることはしたが、だんだん成長する度にズバズバ言うところや我儘し放題な
感じがしてイライラした。
なにより歳と共に私より出来ることが早く増えていったし幼稚園からなりたい夢もあり、
成績はうなぎ登りな気がしたし、
それと共に大会などの賞状の数が増えていた。体も私より丈夫だ。
全く顔も性格も似ていない。
あまりにも似てなさすぎて本当に妹?と
思うし、思われるぐらいだ。
血液型も真逆と言ってもいい。
そしてそれを見てきて当時は
羨ましさや悔しさが込み上げてよく
「なんで私ばっかり...私も同じ親から生まれたのにどうしてこうも違うの?」
と心の中でよく思っていた。
今思えば羨ましさより悔しさより
それは妹を僻んでる感じに近い。
側にいたから妹なりに頑張って努力してる事も知っているのに。
今じゃ自慢の妹で私の誇りだ。
良く仲良くなった人に妹自慢する程だ。
ちょっと前に強直性脊椎炎で遺伝子が原因と
解った時、ふと昔の自分になったように
何で私だけ?
と思ったが冷静に考えて妹も親も検査すらしてないし、いっぱいの愛をくれた母や、
休むことなくがむしゃらに働いてきた父や、
頑張って夢を叶えて看護師として働いてる
妹には絶対この病気になってほしくない。
弱気になったらダメだ自分!と言い聞かせて
そんな事を思わなくなった。
私の昔の友達も中学でクラスの男子が私の
教科書を教室中、散らばせ足跡をつけて
めちゃくちゃにした時も、
学生シューズを取られた時も側にいてくれた。
学校や仕事や勉強で辛い時は愚痴りながら
一緒に寄り添ってくれた。
今も仲良い友達は病気の事を心配してよく
話を聞いてくれる。
私の夫も家計は苦しいが家事も手伝ってくれるし、なにより最近嬉しくて心に響いたのは
私が手術も入院も、もう嫌だと旦那にいってた時に先生に
「心配ではありますが妻の意見を尊重します。
妻のしたいようにさせたいと思います。
妻の人生ですから。」
と言ってくれて重たい心がかなり楽になり
心底、この人が夫で良かったと思ったほど私にとって嬉しい言葉だった。
私が強直性脊椎炎で腰がや関節が痛い時や、
ブドウ膜炎で眼鏡かけていても片目が
見えなかったり、目の痛みや飛蚊症でイライラ
したりしてたら頑張らなくて良いと夫が
側で支えてくれた。
ここまで読んで解ったと思うが、
「死んでもかまわない。」と言って、
頑として頭を縦に振らなかった私が、
手術入院して今では早く治そうと頑張っている1つの理由は簡単に言うと、
周りの愛情や優しさのおかげだ。
この人達のところに、こんな私だがもう少し側にいたいと思わせてくれた親や妹や友達や夫のおかげだ。
感謝してもしきれないぐらい
感謝でいっぱいだ。
そういえば昔なにかのテレビで言ってたっけ?
相手から助けて!と頼られる方が
本当の人徳なんだと。
私もいつか人に信頼され頼られる人になれるだろうか?
母のように
父のように
妹のように
友達のように
夫のように
いや、いつかこの人達に頼られるような
人でありたい。
とりあえずこれからも頑張って治して早く退院して少しでも自分の体にあった仕事で金稼がなきゃなぁ...
病棟のすぐそこのラウンジに気晴らしがてら、行って大きな窓から外を見ると私の心とは全く真逆の冬とは思えないぐらい暖かく凄く晴れ
晴れとした晴天で、さっきまでの看護師や
患者さんへの申し訳なさで落ち込んでたのが
吹っ飛んだ。
看護師が呼ぶ。
「むーちゃんさん午後から検査があります〜」
いつの間にか昼ごはんが三分粥から五分粥に変わっていた。
もう午後だが今日も頑張ろ!
自分に言い聞かせた。
#闘病
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