尊敬している人に対する自分の思い
私の大切な人=尊敬する人でもある。
私がとても運が良いと思うことは、私は尊敬する人が大好きで、とても大切で、尚且つその人が友人でいてくれることだと思う。
大好きで尊敬する人が友人なんて、幸せにも程がある。
そんなすごい人が身近にいるというのは、前世で相当な徳を積んだのだろうね私は。
そんなことを考えつつ、ここ最近考えたことをまとめる。
私にとって大切な人は、私を助けるために色々言ってくれた。
そしてそれは現在進行形でもある。
私はそれを聞き、たくさんの思いを暴走させてきた。
簡単に考えると、その人と友人になんてならなければよかったんだろうと思う。
知り合い程度の関係性で、ただなんとなく尊敬できる人だな、と思うくらいの距離でいればこんなことにはならなかった。
でも、それだときっと私の今日みたいな考え方にはならなかったんだろう。
もう出会って尊敬して大好きになった人が友人だという世界線から逃れることはできない。
大切な人は、私が大切な人に依存することはやめなさいと何度も言っていた。
自分は自分で、誰かに干渉されて気持ちを落ち着かせたりするのではなく、自分の気持ちをしっかり持ち、自分で気持ちを落ち着かせるのだと。
大切な人自身が、いろいろな経験をしているのもあり、こうしてはいけないよ、失敗するよ、ということも聞いた。
そこから回復するために、こういう考え方にしたんだよ、とか治療過程の話もしてくれた。
ただ時折、私はそれを聞いて心が苦しくなった。
治さなきゃいけないのはわかってるけど、素直にその尊敬する人の言葉を聞けない私がそこにいた。
そりゃあなたはそうやって治したんだろうけど、どうしても私はその考え方にはなれない、でも、尊敬する人のようになりたいのなら、そういう考え方になれるようにしなければならない、と。
勧められた本を読んでも、面白いとは思ったが、尊敬する人が気付いたことに気付くことはなかったりもした。
尊敬してるからこそ、尊敬してる人みたいになりたいのに、なんで私は頑張れないんだろうと辛くなった。
頑張ってるはずなのに、全然尊敬してる人に近づけない気がした。
先日、軽く大切な人と反抗期ごっこのようなものをしてから、覚醒したかのように色々新しい思考が浮かぶ。
もちろん、大切な尊敬する人が言うことは正しいだろう。
経験談でもある。
でも、それが私にとって正しいかは別の話だ。
もちろん、大切な人だってそれをわかって言っているはずだ。
ただ、私自身が尊敬する人をある意味盲目に信じ過ぎていた。
私が目指す人は、尊敬する人であって尊敬する人ではない。
私は私にしかなれないし、尊敬する人には一生なれない。
だから、尊敬する人が思ったことを私も同じように思う必要がないし、思うわけがない。
尊敬する人が「自分は自分だけのものだよ」とよく言うが、要はそういうことなんだよ。
よく言われてたし、こんな簡単なことになんで気がつかなかったんだろう。
大好きと尊敬が混在することによって、私は完全に尊敬する人の信者になっていただけだったんだ。
良かったよ、尊敬する人が若い内にかっこよく死んだりしてなくて。
たまにいるじゃん、若い内に亡くなったアーティストを盲信しすぎて、同じ年齢で死のうとしちゃう人。
私がしていたのは、それに近いことだった。
なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
そして、そういうことに気付けた私はなんて素晴らしいのだろうと思う。