サステナブルであるべきは、環境より社会より、まず「わたし」という存在
こんにちは。よしこです。
もう気づけば10月!少しずつ秋っぽさを感じつつも、まだまだ東京は暑い日があったりして、服を選ぶのが難しいなぁと思っています。
さて。
おっきなタイトルを書き終えたので、ちょっとライトなお話をいくつか。
ここ数年流行ってますよね。
「サステナブルな未来」とか、「持続可能な開発」とか。
サステナブルとは、持続可能な(sustain+able=維持+できる)という意味で、その対象は基本的に「社会」とか「環境」を指しています。
けれど、もしそれらを追求するあまり、あなた自身が疲弊してしまうのだとしたら…?
それはちょっと考えものかもしれません。
わたしが北欧やイギリスで感じたことは、「サステナブルであるべきは、まず自分」ということ。
何よりもまず「わたしの心地よさを優先する」ということです。
言葉だけを見ると「いやいや、それってただのわがままでしょ」と思いましたか?
実は、そんなことないんです。
心地よく生きている人は、自然と「生み出す」行為を起こすことになり、自分という存在を「生かす」ようになっていきます。
しかも、その場所、その環境に一番良いカタチとして。
そうなると、自分にも無理がなく、周りとも調和したカタチで、「循環」が起きていくのです。
今日は、「そんなの理想でしょ」「夢物語だ」って思われそうなこのお話について、改めて言語化してみようと思います。
「わたしの心地よさ」を知っていますか?
「わたしの心地よさを大切にする」って、日本に生活しているとどうしても後回しになりがちです。
「誰かのために」が美談になりすぎているからです。
そもそも「わたしの心地よさ」って、どんなことかイメージできますか?
毎日8時間以上、静かな環境で眠れるること。
身体にとって優しい食事が、日々の7割以上を占めていること。
自分のやりたいことのために、少なくとも月3日は使えること。
自分が着たい服を自由に着られること。
自分の「存在」を肯定してくれる人間関係の中にいること。
などなど。
心地よさの基準って、それぞれ自分次第だと思います。
「何が正解」ということではなくて、「自分が心地よく生きるためには、何が必要か」をわかっていることが大事ということです。
ちなみに「それらの条件が、すべてが叶っている状態が良いこと」というわけではありません。
「これがないと(これが奪われると)、わたしは心地よくいられないんだな」ということが自分でわかっていること。
そして、「(わたしは)こうしたい」「(わたしはこういうことを望んでいるから、あなたに)こうしてほしい」と言える自分である。
ということがとても大切なのです。
ちなみにわたしはこのことに「いつ」「どうやって」気がついたのか。
それはデンマークで過ごした、不思議な半年間の日々からでした。
デンマークが幸せの国と呼ばれる理由
わたしは2022年〜2023年にかけて、デンマークにおいて「人生の学校」と呼ばれるフォルケホイスコーレに滞在していました。
「対話での学び」「人生を考える場所」「大人なら誰でも入学可能」というキャッチフレーズに惹かれて、入学することを決めたのですが、そこで得たものはまったく想像していなかった気づきでした。
一つ目は、Højskolen for Bevidsthedsudviklingというフォルケホイスコーレに滞在していたときのこと。
最終日にスーツケースを運んでいて、突然声をかけられたのです。
個人的には「わざわざそんなこと言わんでもいいやん」と思ったのですが(笑)
このときふと、それまでのことが一つにつながって、「デンマーク人は自分の気が乗らないことはやらない」ということに気づいたんですよね。
振り返ってみれば、「PCR検査に関する問い合わせをしたいのだけれど、デンマーク語でしか電話相談できないから、代わりにかけてくれない?」って言ったら、「ちょっとめんどくさい」って言われたりとか(笑)
ちなみにこの人たち、全然機嫌よく手伝ってくれることもあるんです。
だからこそ、それはその人の性格とか、わたしとの関係性とかではなくて、「そのタイミングで、その人がどういう状態か」ということが大きく影響している気がしてきたのです。
この人たちは自分が心地よくいられる「範囲」がわかっているから、それを乱してまで相手に合わせることはしないのだ、ということに。
一方日本人は自分が面倒でも「やるべきだと感じる」とか「相手が望んでいる」という理由で、そのことをやろうとします。
たとえそれが自分の望んだことでなかったとしても。
けれどその小さな小さな犠牲は、いつの間にか自分の心地よさを蝕んでいたりするんですよね。
「やりたくないことをやっている」という自分を当たり前に受け入れてしまった結果、「やらされている」と思うようになってしまったり。
けれど「やりたくないことを嫌々やっている」状態を続けていると、その「負荷」は確実にどこかに溜まっていきます。
その結果、体調を崩したり、周りとのコミュニケーションに影響が出たり、いいものを生み出すということからはかけ離れていってしまうのです。
この経験を経て、デンマーク人は小さな日々のできごとであっても「自分がどう感じるか」からスタートしているのかもしれない、と思うようになりました。
それは「自分の幸せの基準が自分の中にある」ということともつながっているような気がします。
参考)もう一つのフォルケホイスコーレで出会った友人が書いていたすごく素敵な記事!
そして、自分にとっての幸せの基準が明確だからこそ、その延長線上として、コミュニティや社会に対しても自分ごととして捉えられているのかもしれないと思ったのです。
これって、今の日本と逆の矢印なんじゃないかなと。
日本にいて、会社員をしていたときに感じていたのは、「こういう社会が理想で、そこをめざすためにこういう人材が必要で、だからあなたたちはこういう人間であるべきです」という無意識の圧力のようなもの。
もしかしたら、日本は見えない社会の力が強すぎて、個人の感覚が弱まってしまっているのかもしれない。
だとしたら、もう少し「わたしがどうしたいか」からはじまる世界もあっていいんじゃないだろうか…?
そう思うようになりました。
「わたしの心地よさ」を諦めないこと
もう一つ、別のフォルケホイスコーレで体験したこと。ちなみにここはNordfyns Højskoleという、デンマークで唯一日本人がつくった学校です。
タームがはじまって1ヶ月くらい経ったころ、一人の生徒の気質の激しさが目立つようになって、夜廊下で叫んだりすることもあって、みんなちょっとした居心地の悪さを感じていたんですよね。
そして、その流れで「同じルームのあの子って一緒に生活してて大丈夫なの?」という話になったのです。
そのときに先生が言ったんですよね。
日本だと「わたしたちはお金を払ってここに来ているし、学校を運営しているのは先生たちなんだから、何とかしてよ」っていう声が上がってきそうですが、、
ここでは「自分の心地よさをちゃんと理解して、それが侵害されたときには、自分の言葉で主張すべき」という考え方がベースにあります。
もう一つすごく響いた言葉があって、
なんだか今のわたしたちにとって、これってすごく大切なことのような気がしたのです。
これって、小さな人間関係だけじゃなくて、コミュニティとか社会においてもすごく必要なスキルだよなぁと。
だからこそ、この学校では「対話の学び」が重視されていて、それが授業だけでなく生活の中に埋め込まれていて、すべてのことが民主主義の土台になっているっていうことがわかったのです。
もし自分たちの力だけで解決できないなら、第3者の力を借りること。「きちんとヘルプを出せるということも素晴らしいこと」と教わりました。
そういう姿勢がとても素敵だなと思ったのです。
ちなみにコミュニティ全体に影響があるときは先生も動き方を考えるので、誰かが何か言うまでほったらかしというわけではありません。
自分の望んでいることを、素直に伝える
こういう経験を経て、わたしは少し考え方を変えるようになっていきました。
最初に書いた通り、まずは「自分の心地よさ」を知ること。それがわかってきたら、「自分の望みを伝える」という行為が必要になってきます。
望みを伝えるときに大切なのは、「わたしなんかが…」という思い込みを捨てること。
我慢することで解決するのではなく、自分の望みをきちんと認めて、その想いを伝える行為を怠らないということ。
「相手がこうだから」と言い訳にするのではなく、「わたしがこう望んでいるから」という、わたし(i)視点で考えること。
それは、わたしという尊い存在を、わたし自身が大切にするということでもあります。
そして、人と関わり合うことの面倒くささを受け入れること。
「わたしが大切にしたいこと」があるのと同じように、「相手にも大切にしたいこと」があるのです。
人は一人で生きているわけではないからこそ、「相手が大切にしたいこと」もきちんと知り、尊重する姿勢が大切なのだと思うのです。
最近では、シンパシーとエンパシーという言葉でも聞かれますが、
ここで必要なのは、「そうだよね。同じだよ。わかるよ」という感情的な同感ではなくて、
「あなたはそう思うのだね。その意見も理解するよ」というスキル的な共感。
そういうのって、知識で学ぶのではなくて、人と関わり合う中で身につけていくものだからこそ、「対話の学び」が必要とされているのだと気づいたのです。
サステナブルなわたしの、その先へ
「やりたくないことを嫌々やり続けている」人と、一緒にいたいと思う人って少ないと思います。
本人が気づいていなくても、なんとなくその気持ちは周りに伝わってしまうものだからです。
結局人は「心からやりたいと思うことを、人生を通して追求している」、そういう人に自然と惹きつけられていくのだと思うのです。
自分を犠牲にした他者貢献、社会貢献は、必ずどこかで苦しくなります。
いくらそれがかっこいい理想で、大義名分があっても、です。
誰かに自分を認めてほしくて、その行為を行っているとしたら、それはgiverではなく、giverの顔をしたtakerです。
(なので、わたしもいつも「これはどういう望みから来ている?」って自分に問いかけるようにしています)
まず、自分が心地よく生きて、幸せであること。
自分の器が満ちてはじめて、溢れたものが誰かのものになるのです。
それは、そのままのあなたで、誰かのためになれるということ。
見返りのいらないgiveは、もはやgiveという言葉から離れて、「気づいたら自然と与えちゃってた」という感じだと思います。
だからこそ、何かが返ってきたときに、純粋にそれを喜びとして受け取れる気がします。もらった方も、誰かに渡したくなります。
そうして、さらなる循環が起きていくのです。
誰も無理をしていない循環だからこそ、無理なく続けることができるはずのです。
ちなみに、サステナブル(持続可能な)の次に来る概念は、リジェネラティブ(再生可能な)なのだそう。
わたしがイギリスの大学院、シューマッハ・カレッジで教わった授業の中でも「Regenerative Economics」というものがあったのですが、
これも今あるものを維持していくだけでなく、新しい代替手段を生み出し、より良い方法に変えていこうという考え方がベースになっています。
これらはあくまで経済とか環境の話ですが、わたしは人間も同じかもしれないなぁと思っています。
もちろん、自分の心地よさを大切に守ることも大切なのですが、そのうえで、人との関わり合いを通して、自分をより良い存在に磨いていくこと。
そのために人生という時間が与えられているということ。
その結果、世界がより良いカタチになっていくということ。
自分が満ちているから、誰かのために行動したいという気持ちが生まれて、その小さな循環が世界を幸せにしていくということ。
そういう生き方を見て、「わたしも自分の心地よさを生きよう」と思う人が増えていくということ。
「奪い合い」ではなく、溢れたものが勝手に「循環する」世界になれば、きっと世界は豊かにならずにはいられないと思うのです。
だとしたら、自分の人生を心地よく生きることは、人生においてちっぽけなことではありません。
もし、あなたが大きな理想や、忙しい日々に負けそうになっているとしたら、まずは今日1日心地よく生きることに意識を向けてみてはいかがでしょうか?
今日もお読みいただき、ありがとうございました。
《わたしが旅を通して学んだいろんなことを伝えています》
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