止めても辞めないこと
amazarashi の
「未来になれなかったあの夜に」
この曲中に こんな歌詞がある。
夢追い人とは
ともすれば社会の孤児だ
この言葉を借りるなら、
私はもっとも “社会の孤児” だろう。
なにかを成し遂げたい。
憧れの姿になりたい。
そう強く想い、願い、前進を続ける、
そんな闘志を燃やす者たちに
きっと、かならず、訪れる瞬間。
“社会の孤児”として 自らが
この社会から切り離された存在なのだと、
孤独ではないはずなのに
まるで この世界には
自分しかいないのだ、と
そう思わざるを得ない瞬間だ。
それはあまりにも寂しくて、虚しくて、
心苦しい。
目指しているものが何であれ、
成し遂げたいことが どんなことであれ、
一貫して言えることは
辞めないこと。続けること。
数多の先人たちが口を揃え、
生きていれば 何度でも耳にする言葉だ。
そんなことは
とっくのとうに分かっているし、
成し遂げる方法は 他にはない。
しかし
あまりにもそれは苦しい。
どんなに自分が好きで、
自分が懇願して 続けられていたとしても、
時には
想像を絶する苦痛が伴う。
なにかに必死に食らいつき
もがいている者なら、
その大多数がきっと
共感してくれるだろう。
前進し続けることを
私はこれまで、
一度たりとも
辞めようと思ったことは無い。
しかし
近頃、
そう思わざるを得ない瞬間が何度も訪れ、
何度も 己の理想と
現実と 対峙しつづけ、
初めて
“諦める”
“この環境から退く”
という言葉が脳裏を過った。
それは あまりにも残酷で
自らは下せない決断だった。
この生き方を、
この泥臭い姿で居続けることを諦めたら、
一体
私には何が残るだろう。
その姿に執着をしている。
そうとも言えるかもしれない。
納得して
この場から、
“社会の孤児”としての自分から退くのは
“負け”ではない。
でも、
その選択に
“諦めの”という枕詞を
自ら選んでしまう今、
まだ そのときでは無いのだと思う。
一度歩みを止めても、
辞めなければ
再び歩き出せることができれば、
それはまだ
“社会の孤児”からの“撤退”
ではないだろう。
世の中のオトナは
嘲笑うかもしれない。
クサイと一蹴りされるかもしれない。
それでも
“社会の孤児”として
自ら生きることを選択した者たちを
どうか
見守ってくれないだろうか。
特別扱いをして欲しい というわけではない。
ただ、
その姿を 肯定してくれないだろうか。
情けないお願いだろうか。
それでも
私はしばらく
“名誉ある潔い撤退より
泥にまみれ無様な前進を”
選択し続けるだろう。
(引用:「未来になれなかったあの夜に」/ amazarashi より)