誰かの真似はいつかの承継。
本を棚に詰め込むついでに、読みかけていた小説を読もうと枕元に置いた。どう転んでも寂しさだけが残る展開のところで読むのをやめていた本だ。そんな小説や映画がいくつかあって、気が向いたときに悲しみを受け入れるのだ。
どうして作り物の悲しみにちゃんと悲しくなれるのだろう。巧妙な嘘にまんまと騙されにいく。音楽だって演劇だって全部そうだ。嘘を楽しめないなら、環境音や垂れ流されている監視カメラの映像でも見ていればいいんだ。
一方で、髪の毛を無理やりくるくるにしたり、サイズの合っていないズボンを履いたり、意味もなく上空を眺めているような人間は作り物がなければ現実に耐えられない。
好きなミュージシャンの服を真似して、彼らの音楽に溺れ、好きな作家の世界に入り込んでは迷子になり別の誰かに救いを求める。誰かの真似はいつかの継承で、無意識でも文化はそうやって繋がれていくのだ。
好きなものに囲まれ、欲しいものは手に入り、好きなご飯をお腹いっぱい食べられて、それでもまだ求めてしまうのは平和に慣れすぎたせいだ。慣れるも何もこれしか知らないのだから横柄になるのも仕方ないのかもしれない。
今日はやりたいこと全部やりたい。明日も明後日も欲望をなにひとつ諦めないでいたい。
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