死んだら全部忘れちゃうのにね。
古いエッセイのようなものを読んでいると、分からない言葉や読めない単語ばかりが出てきて、そのひとつひとつを書き残して次へ進む。あとで調べようと書くのだけれど、初めて書くような、見たこともないような漢字が出てくる。
日本語はこんなにたくさんの漢字が使われているのかと思う。正確には中国語だとかどこからやってきただとかあるのだろうけれど、今読んでいるのは日本語だから関係ない。
こんなに分からないなら普通読まない。でもメモを取りながらでも、分かりたいと思えることが嬉しいのだ。それはつまり書いた人のことを少しでも知りたいと思っているのだろう。
書いている人のことが好きなら、どんな言語でも分かりたいと思う、と読みながら気づいた。なかなか入り込めない文体は声に出して読んでみたり、知らない単語だらけなら調べながら読んでみたりする。
好きな人や気になる人が書いたものならどんな言語でも、流行りの言葉だらけで分からなくても、分かりたいと思うものだと気づいた。その瞬間、この本の作者が凄く近く感じられた。
自分が生まれた時にはもう死んでいた人なのに、まるで同級生のように、まるでこの間知り合った友人かのように感じられた。なんだかそれがとてつもなく嬉しかったんだ。
それは文章じゃなくても言えることで、音楽や漫画や写真や映画だって同じだ。自分は、誰が作っているのかということを気にしすぎるほど重要視している。別にそれが悪いとか良いとか思わない。ただそういう性質なだけだ。
でもやっぱり、同じ価値観の人は好きになりやすいし、惹かれがちだ。そして違う価値観の人には引かれがちだ。
この間、好きな漫画家の名前をいくつか出したら、今漫画の話をしているんだよね、と改められた。自分は創作において作者やその周りの人、作者の意図を汲み取ることに価値を見出しているのだろう。価値という言葉の外側にある思想や意思だって感じたいんだ。
今日は早く起きて、見たかった番組で笑いながらもりもりとご飯を食べ、手際よく着替えを済ませ、予定通り部屋を出た。とても健康的な朝だった。外に出て数歩、さっきまでの溌剌とした自分が嘘みたいに足取りが重くなった。
聞いていたアルバムのせいではない。きっと雨だったからだ。それか、朝の調子が空元気だったのだ。外に出て一気に抜けていく感じが寂しかった。もっと、自分は、こんなんじゃないって思いながら歩いた。
相変わらず今日もいろんなことが下手くそで、容量が悪くて、とにかくポンコツだった。こんなに何も覚えられないし、何もできないのかと肩を落とす。でも昼を過ぎる頃にはそんな感情も忘れてしまいそうに薄れていた。全て空っぽで、偽物みたいなんだ。
好きな音楽を聞いて帰れば、どうでもよくなる。その場所ごとに精一杯やるけど、その他ではすっかり忘れる、そんな感じでいいような気がしている。基本的には好きなことばかり考えているし、興味のないことを詰め込んだってすぐに出ていってしまう。この脳は都合がいい。
それはつまり、この間言ったことをいつもいつも忘れている人になってしまうのだけれど、もうそれもどうしようもない。この間言われたことをいつもいつも覚えていられない。毎回初めての顔をするしかないんだけど、世界はそんなに都合が良くないから困るな。
帰宅して、今日使った鞄を眺め、今日がんばらせてくれてありがとうと伝え、雨で濡れたから簡単に干した。この脳は単純だから好きなものひとつで嫌なこともなかったようにしてしまえるんだ。
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