重なる声の高い方は、まるで揺れる感情。
今日は昼ごろ起きた。支度を済ませて飛び出るように外出した。
風が強くて、靡く服が少し気になった。電車では扉の前に立っていた。窓の外を見ていたけれど眩しくて帽子を被った。犬や墓地や街を流して、同じ曲を繰り返し聴いていた。
そういえば昨夜はその曲を元にした短編映画を見ていたと思い出した。夢とか将来とか恋とか性とか、ありきたりなテーマが詰まっていた。見たことがあるのに、初めて見るような感じがした。もっと苦しめ、と主人公が言われるシーンだけ印象的で、今日も何回か思い出した。
ぼんやり外を眺めていると、だんだん建物が高くなって、屋上がたくさん見えた。この街は狭いから屋上まで行けるみたいだ。こんな場所の汚いビルでうだつの上がらない日々を送ってみたい。
映像が綺麗だから生活さえも美しく見える錯覚を起こしてみたい。
映像で誤魔化して、舞った埃さえ輝かせてみたい。
電車が駅に着いて、降りる。友人と会う。何をするでもなく歩いて、座って、また歩いて、店に入って、本屋を練り歩いて、久しぶりに新品の本を2冊買った。それから少しして解散した。
帰りに別の友人をご飯に誘うか迷ったけれど、勇気が出なくてそのまま帰った。
最寄駅で降りて、下りる。ひとりで歩く。店に寄って、買い物をして、また歩く。
帰宅して、誘うか迷った人から今度遊ぼうと連絡が来たから今日誘っても良かったかもしれないと思った。でも今日はそんな気分ではないのも確かで、誘わなくて良かったとも思った。
部屋についてからもまだ同じ曲を聴き続けている。見えていなかった視点を知った瞬間鳥肌が立って聞こえ方が一変したと書いている人がたくさんいた。自分がその視点しかないと思っていたことが彼らには見えていなかった。
世界なんてそんなものなんだと思った。これだけ社会で取り上げられていることだって、ずっと昔から当たり前としてあることに簡単に飲み込まれてしまうみたいだ。それが愛とかいう簡単な言葉でまとめられるから寂しくなる。
いつか、哀しみは絶望の中にはないという言葉を読んだ。哀しいのは絶望していないからだということだろう。映画の中でも、痛いのは逃げてないからで、恥ずかしいのは曝け出したからだと言う。
事実としての成長は時に耐えられないほど感情を揺らす。その振れ幅が大きすぎて針が吹き飛んでしまったらどうすればいいんだろう。
あの時、大丈夫と言った人は助けてくれるのだろうか。
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