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あなたの知らなくていい世界 ~in 京都

こんにちは。今回の投稿では安倍晴明から来年の大河ドラマの世界にちょっとばかり迫ってみたいと思います。

ところで、80年代から90年代にかけての時代には今思うとかなり斬新なテレビ番組が放映されていました。

「宜保愛子の心霊スペシャル」「矢追純一のUFOスペシャル」「ユリ・ゲラーの超能力スペシャル」「川口浩の探検隊シリーズ」...このようにいかにもうさんくさい...じゃなくて神秘的かつ啓発的な番組がお茶の間を賑わせていたものでした。

というわけで、こうしたいかがわしい...じゃなくて神秘的な番組のスタイルを歴史の文脈でできないものか?ということでやってみることにしました。名付けて、

「あなたの知らなくていい世界」

先日古書でこんな本を見つけてしまい、つい買ってしまいました。

怪奇現象 ~あなたの知らない世界 新倉イワオ 河出書房新社

あなたの知らない世界、新倉イワオ...名前を見ただけでも懐かしさに涙が出てきます。

というわけで、ここから先は真面目な話です。

↓の画像は京都御苑のすぐ東にある「法成寺跡地」。藤原道長の夢の跡、彼が来世の往生を願って建てた広大な寺院の跡地。現在は見事なくらい何も残っていません。

その人生において栄華を極めたかに見える道長ですが、晩年は阿弥陀信仰に傾倒したうえで必死になって死後の往生を祈り続ける日々を送っていたとか。当時は浄土思想が流行していたというのもあるのでしょうが、その「欠けたることもなし」な人生においていろいろと陰湿なことをやってきたことへの罪悪感が彼を来世への不安へとり駆り立てていたのかもしれませんね。

そしてもしかしたら陰陽道がそんな彼の罪悪感の引き金になって...なんて面もあったかもしれません。「政敵から呪詛を受けていることが明らかになる→自分は周囲から嫌われるようなあくどいことをしている現実を自覚する→生きている間は恵まれた環境にいることができたが死んだ後にどうなるかわからず不安になる」みたいな。陰陽道は現世の危機を救ってはくれるが死んだ後の危機を救ってくれるかわからない、最後はやっぱり仏さま…なんて考えもあったかどうか。

そんな彼の来世への不安と浄土行きへの期待の両方の現れとも言えそうな法成寺には安倍晴明に関わる伝説も残されています。かなり有名な話で安倍晴明のイメージを決定づけるのに大きく寄与した話でもあると思います。「宇治拾遺物語」の巻14の10に収録されている以下のようなお話↓タイトルは「御堂関白御犬晴明等奇特事」

元にしたのは↓の本

宇治拾遺物語・下 全訳注 講談社学術文庫 高橋貢&増古和子

古典文学好きにとって頼もしい味方となる講談社学術文庫。価格が高いことでも知られていますが、これは文庫本なのに定価2500円(税込)。正気の沙汰じゃない!(笑)

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今は昔、御堂関白藤原道長公(以下道長)は法成寺を建ててから毎日熱心に参拝を行っていた。そんなある日、可愛がっていた飼い犬の白犬と一緒に同寺を訪れた道長が同寺の山門をくぐろうとすると犬が吠えながらあの手この手で彼の行く手を遮りはじめた。しかし道長は気にする様子もなく門をくぐろうとしたが、さらに犬は彼の衣服の裾を咥えて断固として引き留めようとする。ここにいたって不審に思った道長は安倍晴明を呼び寄せると状況の確認を求めた。

馳せ参じた晴明が指示に応えて早速占いを行ったところ、門のところに道長を呪うためのモノが埋められているという。そして晴明はもし道長がこのモノをまたぎ越せば災難が起こるであろう、と告げる。「犬は神通力を持っているので察知して伝えようとしたのでしょう」とも。

そこで道長がその呪うためのモノが埋められている場所を見つけ出すように晴明に命じると彼は再び占い、地面のある地点を示した。その場所を掘らせてみると素焼きの土器を2つ合わせて黄色いこより(紐)で十字の形で結び合わせたモノが見つかった。奇妙なことにこの土器の底には朱色(辰砂)で「一」とだけ書かれている。

一体誰がこんなものを埋めたのか、という道長の問いに対して安倍晴明が「この術を知っているのはわたし以外にはいないはず。もしかしたら道摩法師の仕業かもしれません」と言いつつ妖術を用いて調べるとまさに「道摩法師」という老法師が行ったものであり、捕らえられ取り調べを受けたこの法師は藤原顕光の指示によって行ったと白状した。

道長はこの道摩法師を罰することはせず、「二度とこのようなことはするな」と言い含めたうえで追放し、自分の危機を救ってくれた飼い犬をますますかわいがったという。

めでたしめでたし

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犬の神秘的な力を示す話としても大変面白いですね。犬の奇妙な反応を見て土を掘ってみたら恐ろしいものが出てきた...まさに「ここ掘れワンワン」の変形バージョン。そして呪具を埋めた「道摩法師」とは安倍晴明のライバルとして彼を巡る作品(小説、映像作品、漫画、舞台作品など)にもよく出てくる蘆屋道満としばしば同一視されます。

そしてこの話では安倍晴明が「この術を知っているのはわたし以外にはいないはず。もしかしたら道摩法師の仕業かもしれない」と語っています。前回わたくしの投稿で中世以降に陰陽道の秘伝書として広く知られた「簠簋内伝」とその注釈書である「簠簋抄」について少し取り上げてみたのですが、↓の投稿

これらの書物では安倍晴明の伝記(伝説)が序文として記されています。そしてそこには「安倍晴明が不在の間に蘆屋道満が晴明の妻とねんごろな関係(笑)になって彼の陰陽道の秘密を盗み出す」という場面が出てきます。

宇治拾遺物語における安倍晴明のこの言葉はまさにこの「簠簋内伝」ならびに「簠簋抄」の内容を暗示しているように思えますがいかがでしょうか?宇治拾遺物語が書かれたのが13世紀はじめと考えられているのに対して「簠簋内伝」は安倍晴明著と伝えられているものの実態は不明。どちらが先かわかりませんが、影響関係にあると見ることも可能ではないでしょうか?いずれにせよ、この点からもおそらく宇治拾遺物語のこのエピソードが晴明死後に作り上げられていった安倍晴明像に大きな影響を及ぼしたと言っても問題ないと思います。

法成寺が造営されたのは説明板にあるように1020~1030年の期間、そして安倍晴明の生没年は921~1005年ですから時代が噛み合っていない。のでこの話そのものが実話ではないわけですが、歴史ではしばしば事実以上に作り話(伝説・伝承)が後世に大きな影響を及ぼすこともある、そんないい例なのかもしれません。

この「道摩法師(蘆屋道満)」も実在の人物で、詳しいことは失念してしまったのですが、確か道長と権力の座を争った藤原伊周周辺の人々が起こしたとされるとある呪詛事件に関わった人物として記録に残っていると記憶しています(あまり自信ありません)。

そしてこの法成寺のすぐ西側に彼の邸宅であった土御門邸(殿、第)がありました。浄土思想なら阿弥陀如来がいる西方浄土を目指すことになりますから、お寺は邸宅の西にあった方が良さそうなものですが...さすがの「この世をばわが世とぞ思」っていた御堂関白殿も当時の京都の土地事情はいかんともしがたかったのでしょうか?となるといかんともしちゃった秀吉ってすごいな、とかちょっと思ったりもしますが(戦乱で焼け野原となっていたとはいえ)。

安倍晴明の邸宅も「土御門」の地にあって室町時代になって子孫が土御門を名乗るようになります。今やすっかり京都の観光名所になった晴明神社は安倍晴明の邸宅跡と言われていますが、彼の邸宅は実際にはもう少し南東、京都ブライトンホテルが建っている場所と想定されています。そこからまっすぐ東に行くと道長の土御門邸や紫式部でおなじみの廬山寺にたどり着きます。

この土御門邸、現在では京都御苑の敷地内、説明板の立て札のほかはなんにも残ってなくて寂しいのですが、↓

ここで道長が栄華を極めるとともに、彼の権力の土台となった外孫の天皇たちが生まれた地でもあります。1016年に邸宅が火事で焼失してしまった際にはあの源頼光が再建の際の家具・調度品をすべて用意した、なんてエピソードも伝えられていたりしてなかなか興味深いです。

とても仲良しだったらしいお姉さんの東三条院詮子(一条天皇の母親)のおかげで最高権力に就くことができた道長でしたが、その地位を盤石にするためにはやはり外戚になる必要あり、というわけで強引に立后した娘の彰子が無事男の子を産んでくれるかどうかで彼(と彼の一家)の命運が大きく左右される状況でした。そんななか彰子が妊娠し、いよいよ臨月の時を迎えることになり…

一家の命運を賭けた出産ということもあり、そして道長も多くの人達から恨みを買っている自覚を持っていたのでしょうか、彰子の出産の際には一家をあげた厳戒態勢でその時を迎えます。そんな様子が当時彰子のもとで仕えていた紫式部による「紫式部日記」にかなり詳細に記されています。

講談社学術文庫 紫式部日記 全訳注 宮崎 莊平

しかもその内容がかなり現在の私たちにとっては「知らなくていい世界」に満ちあふれたドロドロとした状況となっていて面白いです。ちょっと紹介してみます。

時は寛弘五年(1008年)の秋、当時の暦で8月下旬から9月にかけての出来事。まず安産祈願のための五大明王に祈りを捧げる「五壇の御修法」という祈祷が行われ、さらに道長と近い関係にあった貴族(上達部・殿上人)たちが土御門邸で宿直して万一の時に備える警備体制が整えられていく(ただし管弦などで遊びながら/笑)。

いよいよ臨月が迫ってきた9月10日には総動員体制での安産のための祈祷が実施される。そこではすでに邸宅に詰めていた修験僧だけでなく「諸方の山々・寺々を探し尋ねて」すべて残る者なく集められた修験僧たちが「彰子に取り憑いている物怪を追い出す」ために大声を張り上げ、陰陽師という陰陽師をことごとく呼び集めて八百万の神々にも祈りを捧げる。彰子に取り憑いた物怪を彼女の体から追い出して移動させるための憑坐(よりまし)もすでにスタンバイ。そのほか宿直して詰めていた貴族たちや女房なども集まって緊迫した状況に。

にもかかわらず彰子の出産は難産に。人々の祈りの声はますます高まり、女房たちは涙にくれ、魔除けのための「散米(うちまき)」が列席する人たちの頭のうえに雪のように降り注ぐ混沌とした展開に。

なんとか難産を切り抜けるべくみ仏からさらなる加護を得るため、彰子の頭頂の髪を少しだけ剃り落とす形式的な受戒も行うが、そこへ物怪が大暴れ、気味の悪い「悔しがってわめき立てる声」を上げ、さらには祈りを捧げる僧侶を引きずり倒すなど頑強に抵抗を示す。

しかし最後にはなんとか母子とも健康な状態での出産に成功。しかも道長にとっては待望の男の子ということもあってその場にいた者たちはみな喜びと安堵に打ち震えたのであった…

めでたしめでたし

なんとも恐ろしい光景ですが、そんな混沌とした状況を紫式部は1000年後のわれわれにもその緊迫した状態が理解できる形でうまく表現していると思います。「お米=魔除けの力」という考えがこの当時にすでに存在していたのがうかがえるのも面白いですね。

この紫式部日記における彰子出産のシーンを描いた安田靫彦の「御産の祷り」という作品があります。↓東京国立博物館蔵

陰陽師の存在がカットされているのが残念ですが、この場面のヒステリックで熱狂的な雰囲気がなかなかうまく表現できているのではないでしょうか。ちゃんと「散米」も描かれています。そしてこの絵には不動明王が描かれていますが、その場に実際に不動明王像が置かれていたわけではなく、僧侶たちの熱心な祈祷の様子が「不動明王の生きながらのお姿を眼前に呼び寄せかねない」ものであったという日記の記述を元に描いたもののようです。

彰子が長男(後の後一条天皇)を出産したのは1008年ですから、すでに安倍晴明は死去した後。そんな時期に紫式部が「陰陽師とて、世にあるかぎり召し集めて」と書きつつ個人名を記していないのは晴明の死後にはこれといって世評の高い陰陽師はいなかった、ということでしょうか。晴明の兄弟子とも言われる賀茂保憲の息子、賀茂光栄が当時陰陽道のトップにいたと考えられますが…それとも紫式部が陰陽道に興味を持っていなかったのでしょうか?

ちなみに一条天皇が母親の東三条院詮子の病気見舞いに訪れる際に安倍晴明に厄払いのための「反閇(はんべい)」 という儀式を執り行わせています。北斗七星もしくは九星の形を模してステップを踏む動作らしいのですが、前回の投稿で紹介した「簠簋内伝」の現代語訳&総解説ではこの「反閇」についての説明も書かれています。

いずれ機会があれば紹介してみようかな、と。華麗なステップの実演つきで(嘘)

それから以前信貴山の朝護孫子寺についての投稿をしたときに少し触れてみましたが、

昔は人間に取り憑いた物怪を祓うときには直接取り憑いた人の体から物怪を祓う、もしくは退治するのではなくて、まず憑坐の体に移したうえで退治する、というちょっとまわりくどいやり方が行われていたらしい。この彰子の出産シーンはそんなかつての退魔の方法を垣間見せてくれるものでもあるようです。あやうく失敗しかけてますが(笑)

日記、それも現在のプライベートな日記ではなく誰かに読まれることを前提に書かれた日記に物怪の存在(実在)が当たり前のように描写されている...というのも面白いですが、この物怪・幽霊の類と紫式部との関係について面白い説もあります。

「源氏物語」の有名なエピソードに六条御息所が生霊となって葵の上を呪い殺す話があります。↓の画像はそんな嫉妬と恨みに取り憑かれた六条御息所を描いた有名な上村松園の「」。

これも東京国立博物館蔵。おそらく来年のいずれかのタイミングでこの2つの作品は展示されることでしょう。

この面白い説では「生きている人間が生霊と化して人に害をなす」という考え方はこの源氏物語のシーンから世間に広がったのではないか?と言います。

生霊の概念そのものは「いきすだま」という名称で紫式部の時代にはおそらくすでに存在していたと思われます。ライバルだった(?)清少納言著「枕草子」にも「名恐ろしきもの」として挙げられています。しかし実際生霊が人を苦しめるような話(実話系・伝説系を問わず)が記録に残されるようになるのは「源氏物語」以降らしい。

つまり、紫式部の源氏物語が広く読まれたことによってわれわれは新たな恐怖の対象を背負い込むことになってしまった!ということなのでしょうか。おかげでなにか後ろめたいことをしたときには怨霊や物怪だけでなく生霊にも気をつけなければならなくなってしまいました。

文学作品が人間の深層心理に決定的な影響を及ぼし、それが後世にまで受け継がれる...という稀有な状況がここで起こっていたのかもしれません。

ここにもまた「知らなくていい世界」がひとつ。

では紫式部はなぜ生霊の概念を全面に押し出すような話の展開を考えたのか?おそらく実際に目の当たりにした彰子の難産、そして物怪が暴れ回ったシーンから何らかの形で触発されたのではないでしょうか?彼女の目には暴れ回った物怪たちは単なる化け物の類ではなく、道長一家に恨みを持った人間の怨念が具体化したものに見えていたのかもしれません。

後世になって紫式部は「作り話で人の心を迷わせた」罪で地獄に落とされたという風説が広まるようになって、現在ではその風説を元にした紫式部と小野篁のお墓が並んで立っているスポットも京都にあります。もしかしたらこうした風説も人の恨みを買うような振る舞いを繰り返していた人たち(権力闘争に明け暮れた貴族たち)の中でこの事実に気づいた人が生霊の恐怖に晒されながら「紫式部め、余計なことしやがって!」とばかりに八つ当たり気味にひねくりだして広めたものではないか...なんて妄想もしたくなってきます。

ところで、よく知られているように平安時代の貴族は「婿取り婚」が一般的だったと考えられています。なので父親の邸宅は娘(の一家)が相続する形となっていたようです。この土御門邸ももともと源雅信から彼の娘婿の道長に相続されたもので、道長の後は娘の上東門院彰子が相続して住んでいました。そんな彼女がここの女主として住んでいた頃のちょっと面白いエピソードが「今昔物語集」に残されています。

講談社学術文庫 今昔物語集 本朝世俗篇・下 武石彰夫

巻27の第28話。タイトルは「京極殿にして古歌を詠むる音ある話」。以下のような内容です↓

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今は昔、上東門院彰子(以下彰子)が京極殿(土御門邸)に住んでいた当時の話。春の桜シーズンで満開の桜が美しく咲き誇っている時期に彰子が寝殿でその様子を眺めている(オリジナルでは「聞く」と書かれています)と気高く神秘的な声で詠まれる歌が聞こえてきた。

こぼれてにおふ花ざくらかな

歌を聞いた彰子は「これは誰が詠んだのか?」と興味を持って周囲の者たちに聞いてみたが誰も歌っていない、それどころか声が聞こえてきた方向には誰もいなかったという。驚いた彰子はこれは鬼神の類が歌ったものかと怖くなって当時宇治に住んでいた弟の関白頼通(以下頼通)に使いを送って報告してみると彼からは「いや、それは京極殿ではよくあることですよ」となんともあっけない返答。

ますます恐怖を感じた彰子はそれ以来、声が聞こえたあたりには近寄らなくなったという。これは決して狐狸の類の仕業ではなく、何かの霊が美しい桜に感興を抱いて読んだものなのだろう、しかも夜ではなく昼間に堂々と現れるのはじつに恐ろしい。結局この霊の正体もわからずじまいであった...と伝えられている。

おしまい

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紫式部日記において彰子に取り憑いていた物怪は現在のオカルト用語(?/笑)で言えば憑依霊の類に分類できると思いますが、こちらは頼通の返答からも明らかなように完全な地縛霊。道長の家には地縛霊が取り憑いていた「訳あり」物件だったということになる!

恐ろしいですねぇ~

それと東三条院詮子と道長の姉弟と同様、彰子と頼通の姉弟も仲が良かったと言われていますが、このエピソードからもうかがえるように思えます。それにしても「実家で幽霊が出たよ!」という姉の報告を弟に知らせるためにわざわざ宇治まで走った使いの者はどんな心境だったのでしょうか(笑)

そしてこの「道長の邸宅は訳アリ物件だった」エピソードからは「平安時代の貴族たちはなぜ婿取り婚だったのか?」に対するひとつの見解を導き出せるような気もします。

この時代、貴族たち(もっぱら男)は権力闘争(それもかなり陰湿な)に明け暮れ、他人を蹴落とし、陥れる過程で呪詛されたり、怨霊の標的にされてきました。そんな状況で男から男へ、つまり息子に家を相続させてしまうとこうした負の要素(業?)が代々受け継がれてしまい邸宅が恐ろしい事故物件と化したうえで子孫に害をもたらす恐れが出てきます。

そこで娘に(婿をとって)相続させる形をとる。陰湿な闘争に直接関与していない(そして女性はしばしばシャーマンなど神秘的な世界と深く関わる役割を担っていた)女性が相続することで父親が重ねた「業」がいったんリセットされる、といった考え方があったのではないか?

どうでしょうか?それなりに説得力があるような気もするのですが。

さらにここでもう一歩踏み込んでこの歌を詠んだ地縛霊とは何者か?について安楽椅子探偵よろしく迫ってみたい。そんなわけで話は冒頭の法成寺の安倍晴明の話に戻ります。

この話では道摩法師に命じて道長を呪詛しようと目論んだのは藤原顕光という人物でした。道長の従兄弟、そして道長の父兼家と非常に仲が悪かったことでも知られる兼通。この血縁関係からしていかにも仲が悪そうですが…この顕光は最終的な官位は従一位・左大臣と非常に立派な経歴ですが、当時は無能な人物として嘲笑されていたそうです。↓は彼のWikiページ

「大鏡」には彼の紹介が少しだけ書かれていまして、そこにはWikiページにもあるように「悪霊左府(悪霊の左大臣)」と呼ばれたそうです。そして先述した宇治拾遺物語のエピソードの末尾にも「死後に怨霊となって道長周辺にたたりをなした」と書かれています。

生きている間に呪詛を行い、死んだ後に怨霊となって一家に取り憑く...土御門邸に地縛霊となって取り憑く人物となれば彼以外に考えられません。しかし読んだ歌はなんとも言えぬのどかなもの(おそらく万葉集が元ネタ)。彼の魂は地縛霊としての日々を過ごしつつも次第に恨みを忘れて達観の境地に達しつつあったのかもしれません。彰子は怖がっていましたが、もしかしたら成仏していなくなる日も近かったのかも?

そしてこの状況は先述した「娘に相続させることによって家に蓄積した業がリセットされる」状況を示しているのではないか?

今回投稿した画像はいずれも跡地なのでまったくネット映えしないものばかりになってしまいました(なので表紙画像も「焔」)。しかし、こうして「知らなくていい世界」を垣間見たうえで見直してみるとさっきは見えなかったものが見えてくる...かもしれません🤣。

せっかくなのでタグを作ってみました。もしみなさんも面白いネタがあったらぜひこのタグを使って投稿してください。このnoteから一大ムーブメントを起こそうではありませんか!

そしてあわよくばシリーズ化しようかとも目論んでおります。



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睦夢夕
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