浅田彰「構造と力」が文庫化?
浅田彰「構造と力」が文庫化されるといううわさがSNSでかけめぐっています.ニューアカブームまっただなかの1983年に出版された,名前だけはとにかく有名な本ですね.学生時代に読みましたが,世評とはちがってそれほどむずかしくはなく,むしろこんなにかんたんにまとめてしまっていいのかなと思ったくらいわかりやすい本でした.
当時はフランス哲学系のデリダとかドゥルーズ-ガタリとかクリステヴァといった「ポスト構造主義」が哲学の最先端ということで,思想や文芸の世界で大流行していました.しかし訳本がまだそれほどでておらず,でていても翻訳が悪くてなにが書いてあるかチンプンカンのものばかりでした.
そんななかで,「構造と力」は構造主義からポスト構造主義への哲学の転換の要点を,いわば図式的に非常にわかりやすく解説しました.構造主義は人間の精神や文化の内的構造を論理的かつ科学的に明示しましたが,その構造はきわめて静的なものであって,人間社会を動かすダイナミズムといったものをとらえそこなっている.ポスト構造主義では「力」という概念をおいて,そういった内的構造をたえずつきくずしてはあらたない再構築,脱構築をするのだ.
というのはわたしの勝手な要約ですが,とにかくポスト構造主義のマニュアル本といった趣でした.この「力」というのは当時はやったキーワードです.ドゥルーズならば「欲望」,ガタリならば「差延」,バタイユなら「エロス」,柄谷なら「資本」などなど,みながいろいろ言っていますが,浅田彰がこれらを構造をつき動かす「力」という概念でまとめたのですね.それで当時「最先端」といわれたフランス現代思想を非常にわかりやすく紹介したというわけです.
「ポスト構造主義」の代表的な本,たとえば「ミルプラトー」や「エクリチュールと差異」は日本語で読んでも理解不能なのですが,それは翻訳が悪いというよりは,そもそも翻訳が不可能だったからです.それも「フィネガンズウェイク」が翻訳不能とはまったくちがって,悪い意味でそもそも論理がとおっておらず,内容が滅茶苦茶だっただからだといまならばわかります.
それはアランソーカルの名著「知の欺瞞」(1998)が赤裸々にあきらかにしたとおりでした.「テクストが理解不能に見えるのは,他でもない,中身がないという見事な理由のためだ」(知の欺瞞).浅田彰がよくつかった資本主義をあらわす「クラインの壺」のイメージもまさにその例で,数学的概念(トポロジー)の「不完全かつ欺瞞的使いかた」,すなわちインチキだというわけです.
いまは「ポストモダン」ということばで総称される,これらの構造主義からポスト構造主義への思想の流れを追うことで,わたしはおよそ10年以上の歳月をまったくむだにしてしまったのですが,でも知のパズルで楽しませてもらったと思えば腹もたちません.「構造と力」と「知の欺瞞」の2冊をつづけて読むと,20世紀後半のポストモダンの流行とその完全否定という過程を,非常に知的な興奮をもって楽しむことができます.そういった意味で興味あるかたにこの2冊をお勧めします
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