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むにみずべ 滋賀編01 琵琶湖疏水船
ついに来ました、西の本丸。これ知っていますか?
むにみずべとは、その土地ならではの、唯一無二の水辺体験。もはや琵琶湖疏水船のことと言っても過言ではありません。
むにみずべのポイント
トンネルの水路を船で抜ける
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京都新聞 THE KYOTO 2023.03.25付記事より
なんて面白いのか。船にだってほぼ乗らない現代で、トンネル内の水路を乗った経験なんてほぼ皆無ですよね。
Google先生とお話すると、「水路トンネル」でヒットするのは、ノルウェーで建設計画のある、船が通れちゃうフィヨルド付け根をぶち抜く運河トンネルくらい。こちらもまだ実現していません。
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https://www.kystverket.no/en/fairway/stad-ship-tunnel/ より
つまり琵琶湖疎水船は、アクティビティの時点で、既に唯一無二なのです。
しかしそれだけじゃない琵琶湖疎水。そもそもこの水路トンネル自体が類稀な場所です。
都じゃなければポンポコの時代
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明治2年、ついに天皇が東京に行幸しました。実質の首都移転が及ぼす影響は大きく、京都は人口が激減。狸が急増。京都は空前のポンポコ時代に突入しそうになりました。
どうする京都。第3代京都府知事、北垣国道は秘策を打ち出しました。
それがポンポコ一掃事業!ではなく、
琵琶湖の水を引いてくること。大量の水さえあれば、水運・水車・灌漑・上下水と産業の基盤が作れるからです。すぐ山の向こうにある日本一の巨大な水がめは相当気になる存在だったでしょう。
まぁ実はまだ京都に都が来る前、日本史上最も名前が素敵な一人、中臣鎌足と一緒に大化の改新を行った中大兄皇子こと、天智天皇が琵琶湖のほとり、大津に都を移しています。そのままにしておけば水の心配は無かったのですがね、まぁ風水やら時の権力者の様々な思惑もあって、大津京の127年後、794年に平安京が都になりました。
(つまり京都よりも前に大津に都があったのです。。京都人も滋賀人より都の人としては後輩な訳ですね。よくわかりませんが。)
さてさて。北垣知事の秘策に対応したのがなんと、東大新卒の田邉さん。卒業論文で琵琶湖疎水について書いていたところ、君そんなら京都行きなよ、と言われ京都府に就職、あれよあれよと琵琶湖疎水事業の主任技師になりました。
ちょっと信じがたいですが、明治時代の大学卒というのはそういう人材として見られていたのですかね。そういえば大学院の同期にはアフリカや中南米、インド等々から多く留学生がいましたが、彼らも帰国後、官庁やら教授やらどんどん凄い人になっていきました。
琵琶湖の水止めたろか、流したろか
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都の住人としては先輩だったはずの滋賀県民は、いつの間にか京都府民に見下されるようになってしまいました。これまでどれだけの滋賀県民が煮え湯を飲まされ、蔑まれるたびに、琵琶湖の水さえ止めればと思ったことか。
そう、滋賀県民最後の切り札は、琵琶湖疎水なのです。
当時、例え琵琶湖が干ばつの状態でも、京都に一定量の水を供給するようにしていたために滋賀県民にとって琵琶湖疎水は不愉快な存在でもありました。加えて1896年には大変な水害が発生、下流側の京都を守るべく疎水を京都市側が遮断したことで、大津側では浸水被害が拡大。なんと、止めたろかと脅していたところ、今度は止められたせいで大変なことになってしまったのです。
そうした様々な怨恨を生んだ、止めたろ流したろ論争により、琵琶湖疎水には超重厚な鉄扉が付いています。扉の下には穴が開いており、増水時に扉を閉めても一定量は京都側に流れるようになっているとのこと。残念ながらもう県民一人ひとりの恨みつらみで止める術はないのです。
ちなみに琵琶湖から流れ出る瀬田川は、名前を宇治川と変えながら京都に至ります。琵琶湖疎水を止める術はないものの、瀬田川には洗堰が設けられ、渇水時には止めることも可能なようです。
滋賀県民の皆様は、京都人に蔑まれたな、見下されたなという時は、琵琶湖疎水ではなく瀬田川洗堰に向かうことをお勧めします。
疎水を彩る春の桜と秋の紅葉
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琵琶湖疎水の舟運は、昭和26(1951)年の砂利運送を最後に一度は消えたと思われましたが、約70年後の平成30(2018)年、琵琶湖疎水船として復活しました。この時のニュースは今でも鮮明に覚えていて、
え、あの歴史の教科書でやった琵琶湖疎水って船で行き来できたんだ、
しかも今も乗れるようになったんだ!!と感動した記憶があります。
琵琶湖疎水船は春(3~6月)と秋(10~11月)の運行です。
そう、桜と紅葉がきれいなのです。疎水工事は山を切り開き、トンネルを掘る大工事。周囲の土を安定させるために、山桜を植えたそうです。ナイスチョイスでした。
江戸では隅田堤も同様に、根っこだけでなく、花見客が押し寄せて踏み固めることで、盛り土を安定させるべく桜を植樹したと聞いています。つまり水辺と桜は切っても切り離せないのです。
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ムニが行った11月は紅葉シーズン。桜だけでなく紅葉も彩る山中は、とても素敵です。(2023年11月11日は、少しシーズンが早く、紅葉全盛ではなかったのですが)
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結構なスピードで駆け抜ける舟
琵琶湖舟運と瀬戸内舟運の接続
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奥が疏水、手前が琵琶湖
琵琶湖疎水船は、今クラウドファンディングを募集しています。なんとその発着場所を、現在の大津閘門前から、琵琶湖沿いの大津まで延伸させる計画があるためです。琵琶湖と疎水は水面の高さが異なるため、閘門という水のエレベーターで仕切られています。ここを通過し、大津港まで行けちゃうということです、、最高ですね。
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翻って京都側は、蹴上インクラインという場所が疎水船の終点です。インクラインとは、船を線路に載せて運ぶ設備の事を言い、ここ蹴上はそうした船を運ぶための線路が敷かれた場所でした。なんとなく桜の名所として有名なあの線路は、実は船を運んでいたわけです。
あれ、ということは、琵琶湖疎水を京都側に抜けた船は、インクラインを通りさらに京都市内に行っていたということですよね。
そう、琵琶湖疎水は平安神宮やその周囲の庭園に水を送りながら、鴨川に合流、その後は桂川と合わせ宇治川に合流、大阪府に入り淀川として大阪湾に流れ込みます。
あれあれあれ、ということは、少なくとも明治時代くらいまでは、琵琶湖で乗った船がそのまま瀬戸内海まで出れたということです!!
ロマンがありますねぇ。
この辺については、京都の川湊 伏見で乗れる十石船の記事で詳しく書きたいと思います。
以上、歴史浪漫のあふれる奇跡のむにみずべ、琵琶湖疏水船でした。
2023年は11月30日まで、
残り数週間しかありませんが、
ぜひ行ってみてください!!