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何かを書いている(続きを書いたが迷走している)

ふと、剥がし終えた包装紙の裏側を、何かが横切ったような気がした。勘違いだと思ったが、少し気になったので、僕は恐る恐るその紙を裏返した。しかしそこには何もなかった。また虫の幻覚を見てしまったのか、と思った。最近しばしばそのような幻覚を見る。それは僕の閉じかけた目の端をそそくさと駆け抜け、部屋の隅の方へと消えて行く。あるいはそれは無限遠の彼方へと旅立って行くのかも知れない。しかしそんなことはどうでもよかった。僕にとって大切なことは、部屋が清潔で、僕以外の生き物が存在しないこと。ぐっすりと眠って、何かを忘れてしまうには、この小さな世界を、僕だけが存在する世界へと作り替えていかなければならない。しかしそれは困難な営みだった。友人が部屋を訪れることは滅多にないが、コバエやカメムシや小さな蛾は、毎日のように僕の部屋を訪問して、僕と(すでに散らかっている)部屋を荒らしまわってどこかに去って行く。毎夜訪れるその恐怖の来訪は、知らず知らずのうちに僕の心を蝕み、いるはずのない虫を部屋におびき寄せる甘い蜜とささやかな光を、意図せずして僕の部屋(あるいは僕そのもの)に備え付けたのだ。
それはしかしあくまで幻覚であった。そういえば虫が這いずり回る音など聞こえてこなかったし、虫が存在するという事実がもたらすあのぞっとするような冷ややかさを、僕の身体は全く感じていなかった。そこには生きているものなど存在せず、ただ生きているものを自分が心の内に創り出してしまう恐れだけが存在していたのだ。
僕は乱れた心を落ち着かせようとして、机の上に置かれた煙草の箱を手にとった。しかし煙草が入っているだけの重みを僕の手が感じ取ることはなかった。箱を開けずとも、そのような予感は正しい。それはこれまでの経験から明らかなことだった。それにこの雑然とした部屋の中から、何か火を付けるもの、つまりはライターだとかマッチだとかチャッカマンだとかを探し出すのは、乱れた心に鞭を打つ営みであるように思われた。
僕は煙草を吸うのを諦めて、包装紙の裏側をぼんやりと眺めた。そこには蛆虫のような何かが、その存在を隠すことなく堂々と群れをなしていた。しかしそれは見間違いであった。そこにはまるで読まれることを拒むように乱れた文字列が、整列を拒む児童たちの叛逆のように、甲高い歓声を上げて僕に合図をしていたのだ。
僕にはその筆跡に見覚えがあった。曖昧な記憶だ。彼女と文通をしていたわけでもないし、そもそも親しいと言える自信もない。彼女がペンを持っていたところを見たこともない。しかしその記憶は間違いなく触知可能な具体性を持って、僕の心に宿命とも言える痕跡を残していた。僕は彼女の顔貌を思い返そうとした。しかしそれは端に追い詰めた金魚がするすると手元から逃げ出すように、輪郭を捉えた瞬間に僕の手からこぼれ落ち、有名なモデルやら遠い親戚やらの顔にすり替わってしまう。あるいは彼女の存在も、虫の幻覚のようなものなのかもしれない。しかしその筆跡は、決して何かの創作物でも、僕の妄想でもない。誰かのことを思い出すという営みは、もしかするとそのような触れることのできる断片から一つの統一体を再構成することなのかもしれない。

ここにその包装紙がある。それは僕が深い底に沈んだ記憶を引きずり出して、この文章を書くためには必要不可欠なものである。全てが妄想で、本当のところ起こり得なかったことであっても構わない。しかしそれが妄想でないと自分に言い聞かせることなしに、何かを書くという営為を完結させることなどできるだろうか?
つまりはこの文章は記憶の中の記憶を探るささやかな冒険であるのだろう。僕が覚えているのは包装紙を見つけたあの夏の日の出来事であって、その夏の日に思い返した彼女との触れ合いではない。階層化している記憶の中に、知らず知らずの内に異物が紛れ込むこともあるだろう。僕は彼女の記憶を自分の都合のいいように作り替えてもいるだろうし、あるいは彼女は存在しないのかもしれない。確かに言えることは、僕が偶然その包装紙を見つけ出し、彼女が書いたらしき文章を読んで何かを思い出した(あるいは創り出した)ことであり、僕がレインコートを探すことを断念し、コンビニへ出かけることはなかった(それはつまりあの夏を部屋の中だけで完結させたということでもある)という事実のみなのである。

(つづく)


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