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【19日目】どこまでも青い空の下で(ニンゲンのトリセツ)

◆モトから見た世界

 繰り返しになりますが、この世界にあるものはすべてモトからできています。物質もモトでできているし、物質でない人間のココロもモトでできているんでした。ですから、本当に、この世界にあるあらゆるすべてが「モトでできている」と言えてしまうのです。

 例えば、あなたの目の前にあるコップ、そして、あなた自身。これらはどちらも「モトが集まってできている」のです。

 ですが……感覚的には「コップ」と「あなた」は別のものですよね? もちろん、あなたの持ち物、という観点はあるでしょうが、コップそのものとあなた自身は「別の存在」である、というのが普通の感覚ですよね。

 これが「モトの知識」があると、ひっくり返るわけです。僕たちは結局、モトのカタマリでしかないんです。そして目の前にあるコップもまた、モトのカタマリでしかないんです。僕たちの世界にある、あらゆる全てがこの「モトのカタマリ」でしかないんですね。

 これが「モトから見た世界」の姿なんです。

 ですから本当は、あなたとコップの間に「境い目」なんてないんです。この世界というのは、難しい言い方をすると『非常にシームレスなモトの連続体』なんです。継ぎ目のないモトの集まりというものが、この世界の本当の姿なんです。

 そんな世界で、僕たちは「カラダ」というものを持った状態で存在しています。これは一体、何を意味しているんでしょうか?

◆ひとつながりの世界がなぜ「自分」と「自分以外」に分かれているのか

 確かに、いくらなんでも急に「この世界はすべてひとつながりで境い目がない」なんて言われても、困ってしまいますよね。だってやっぱり「私」というものは確かに存在しますし、その「私」と「となりの人」は別の人間だし、世界の果てにいるかもしれない「赤の他人」もやっぱり「私」とは別の人だし……感覚的には、当たり前にそうなりますよね。
 特に、僕たち人間という生き物は、他の生物よりずっと「アタマ」が発達していますので、そもそも「私」とは何だろう? なんてことを考える力があります。『我考える、故に我あり』(デカルト)という有名な言葉もありますよね。

 ですが、僕たちが生きている世界が「ひとつながりのモトの集まり」であるならば、本当は境い目がないことになります。これが何を意味するのか……それは、

「僕たちは『どこまでが自分か』を自分で決めていい」

ということです。

◆自分との「距離」から「世界を再定義」する

 え? と思われるかもしれませんが、実際に僕たちは「カラダまでが自分だ」と『自分で』決めています。ほら、ABC理論の『B(信念)』にあたるものなんですよね。僕たちは「自分のカラダまでが、自分自身だ」という『信念』を持って生きているんです。もちろん、わざわざ普段から言葉にしたり口にしたりすることは、ないとは思いますけどね。

 ですが、人間の発達した「アタマ」を上手に使えば、これをコントロールすることができたりします

 どういうことかといえば……確かに「私とは何か」といえば「私は私」なのですが、この

「私」に「どれだけ近いか?」

なんていうことは、僕たちは普段から無意識に考えていたりするんです。

 例えば、アンパンが2個あるとしましょう。一つは自分の分。もう一つはだれか好きな人にあげていいとします。
 このとき、目の前に「あなたの顔見知り」と「全く見ず知らずの、赤の他人」がいるとします。あなたなら、どちらにあげたいと思いますか?

 場合や立場によるのかもしれませんが、普通なら「顔見知り」を選ぶと思うんです。「顔見知り」をやめて、全くの「赤の他人」を選ぶ理由がないからです。
 それにもし逆の立場だったとして、全く初めて会う「赤の他人」からいきなりアンパンを差し出されたとき、あなたはその場でパクパク食べますか? 少しは「これは食べて大丈夫なのか?」と、警戒するのではないですか?

 こういう他人との「距離感」みたいなものは、誰でも持っているんじゃないかと思うんです。この「距離感」というのも、先ほどの「自分と自分じゃないものの境い目」と似たようなものなんです。どちらが「より『私』に近いのか?」という感覚ですからね。

 そして、その「感覚」の中でも「一番『私』寄り」な場所というのが、僕たちのカラダの中、というわけです。

 モトというものの知識があると、世界という場所をこういうふうに

「とらえ直す」

ことができるようになります。自分と自分じゃないものの「境い目」がカラダである、という知識のもとで、世界という場所を「再定義」できるわけです。

◆新しい「カラダの役割」から見えてくる新しい「世界の捉え方」

 僕たちが生きている世界というのは、一見「自分」か「自分以外」に分かれているように見えるけれども、本当はすべて同じものからできていて、境い目というものは「自分で勝手に思い込んでいる」ものだ、という新しい「気づき」が得られるのですね。

 それは「もしかしたら、目の前にある「何か」も、自分自身の一部なのではないか?」という『可能性』への気づきでもあります。見渡す限りの世界にある全てが、もしかしたら「自分自身」なのかもしれない……逆に、自分自身というものは、本当は世界のすべてを指すものなのかもしれない……そういう壮大な考え方です。

 とても壮大で、壮大過ぎるからこそ「荒唐無稽(こうとうむけい)な絵空事」に思えてしまうかもしれませんが、「モト」という観点があれば、これが本当かもしれない、という可能性を感じられるようになります。

 これが「アタマを上手に使って『自分』がどこまでかを決める」ということです。

◆『世界は一つ』はモトから見た「真の姿」だ

 最後にまとめますね。
 カラダというものは、自分と自分じゃないものの

「境い目」

として存在するものですが、モトの観点から世界をもう一度見直すと、本当はこの「カラダという境い目」は幻想であることに気づくことができます。なぜなら、この世界にあるあらゆるものは「モトからできている」ので、モトの「濃い薄い」があるだけで、本当はどこまでもひとつながりなんです。

 こんな世界で「自分はどこまでなのか?」を決めているのは、実は自分自身なんです。ですからこの

「どこまでが自分なのか?」

をもう一度見つめ直し、世界を改めて眺めてみると……

 あなたの近くにいる人、近くに住んでいる人、地域の人、同じ国の人、隣の国の人、同じ惑星に住んでいる人……そういった「自分以外のなにか」だった存在が、もしかしたら「自分自身」なのかもしれない、という不思議な感覚が得られるかもしれません。

 これには「アタマの使い方」が重要なのですが、どう使えばいいのか? という話は、結局「モトあつめ」をいかにやるのか? という話になってきます。なぜなら、僕たちは他人との間で「モトのやりとり」をしているからです。

 この「モトのやりとり」の具体的な方法や実際の様子などについては、次の『初級編』で、実例などを交えてくわしく解説していきたいと思います。どうぞお楽しみに!

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 さて、この入門編では、ここまで「『モト』という新しい概念」の紹介をしてきました。入門編でお話するのはこのくらいにしておこうと思います。ここまで出てきた内容だけでも、読む方によってはかなり衝撃的だったのではないかと思うからです。
 ですから、できればもう一度この入門編を読み返していただき、この新しい概念『モト』についての「基礎中の基礎」を身につけていただければと思います。そうすれば、次の『初級編』で紐解く「実生活とモトあつめ」という話も、すんなり受け入れられるのではないかと思います。


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日南本倶生(みゅんひはうぜん)
「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)