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受動意識仮説 から 唯識を考察

おはようございます。
先日、こんな記事を見ました。

最近、僕の中で量子力学って気になってるので、この記事が目に付いたんですけど、、、
この記事の中で、「受動意識仮説」ってのが気になりました。
コレ↓

 受動意識仮説とは、一言でいうと、私たち人間1人ひとりが、「私が」というふうに主語で表す意識主体たる「私」は、私たちが通常そう感じているような「能動的な主体」ではなく、「受動的な何か」でしかないのではないか、という仮説です。

で、その先にこう書いてます。

「0.2秒の差」が意味すること
 脳の中で「指を動かせ」という信号が、指の筋肉に向けて発せられた時刻と、心の中で「指を動かそうと思った」時刻を比べたら、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられた時刻のほうが、0.2 秒、早かったのです。

えっ!! ウソ!!

ってなりませんか。
つまり
「指を動かせ」という信号が出た後に、意識で「指を動かそう」と思った。
ということです。
詳しくは記事を読んで下さいね。^^

この記事によると、とりあえず意識は受動的であるらしい。
「指を動かせ」という信号は意識によって能動的に発せられて訳ではない。ということ。
なら、「指を動かせ」という信号を能動的に発しているのは何なのか?

ちょっと考えてみたんですけど、、、

これ、アーラヤ識じゃね、、、

仏教で心の仕組みを説明するときには、たいてい「唯識」というのが出てきます。
で唯識では、意識の奥に「マナ識」「アーラヤ識」ってのがあると考えます。いわゆる、無意識の領域です。
「マナ識」は自我の領域
「アーラヤ識」は命の領域
と云われます。
唯識に関しては詳しくは述べませんが、、、

「指を動かせ」という信号を能動的に発しているのはアーラヤ識である。

と考えると、辻褄が合うんじゃないかな、、、と。
「アーラヤ識」が能動的に「ゆびを動かせ」という信号を指の筋肉に送り、
それから「アーラヤ識」が「意識」に「指を動かそう」と思わせた。

つまり、アーラヤ識が指を動かしてから、意識化した。

と考えると、運動に関したら辻褄が合いそう。


で、運動ではなく、「思考」はどうだろうか?

思考は意識と無意識(ここではアーラヤ識にしときます。)の間だけでのやり取りなので、単純だと思うのですが、、、
アーラヤ識では複雑な思考は出来ないので、直接「意識」に働きかける。

アーラヤ識が「ちょ、これ難しいから考えてくれへんか」って、意識化する。

運動や思考の経験が、業(カルマ)として、種子(しゅうじ)となり、アーラヤ識に薫習する。(この辺りの唯識の詳しいことはハショります。)

で、経験値を増やしたアーラヤ識がまた運動や思考を能動的に動かす。

この循環で私たちは生きている。

そう考えると、納得できるのではないでしょうか。

今日はそんなところです。
ありがとうございました!!^^

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