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村上隆『芸術闘争論』に見る、現代美術と科学の共通点―創造と挑戦の核心

オートテリック活動の記事で現代美術について偉そうに語ったが、私は現代美術の内容には詳しくない。現代美術という活動のオートテリックな性質を先に知って、その内容に興味を持ち始めたのだ。

現代美術家、村上隆博士の『芸術闘争論』を読んだ。学位の敬称をつけて彼を呼ぶメディアは見たことがないが、彼は東京藝術大学の日本画科で初めての博士号取得者であり、学術的達成への敬意を示し、村上博士と呼ばせていただく。

『芸術闘争論』のなかでも、現代美術という業界がどのように動いていて、日本の美術界が世界でどのような位置づけなのか、そして村上博士本人がどのように世界トップクラスで走り続けているのか、非常に明確でかつ情熱的な説明が書かれていてたいへん興味深かった。

『芸術闘争論』で語られる現代美術業界の構造や村上博士自身の活動は、科学業界にも共通するものが多く見られた。もちろん、美術と科学では取り扱う対象やキャリアの進め方、資金の流れは異なるが、根底にある概念的な部分や精神的な姿勢には、驚くほどの類似点があった。さらには、この共通点は美術や科学にとどまらず、あらゆる創造的活動や挑戦に通じる普遍的な事実でもあると感じたのだ。

この記事では『芸術闘争論』を読んで感じた、現代美術業界と科学業界における共通点について、ちょっと熱めに語ってみる。


オートテリック性

オートテリック活動の記事でも書いたが、現代美術も基礎科学も、どちらも自己目的化した活動だ。つまり、現代美術では美術という概念の限界を破壊することによりその境界を広げていく活動で、基礎科学は人類の知識を拡張する活動である

『芸術闘争論』によると、現代美術では美術史におけるなるべく多くの要素を串刺しにしたようなコンセプトを作品に持たせ、その先にある新たなコンセプトを示すことが評価の対象のひとつだという。基礎科学でも、研究テーマの歴史で少しずつわかってきた事を積み重ねて、その先のもう一歩を作るのが研究論文だ。

最先端のことをやるにはどうしてもお金がかかる

村上博士は、日本社会に根強く存在する「貧しさ=正義」という精神構造に対し、強い問題意識を持っている。特に現代美術において、「芸術は資本主義に迎合するべきではない」という批判が多いが、村上博士の立場からすれば、現代美術は資本主義の真っ只中で成立しているという現実を無視するわけにはいかない。彼がハイファッションブランドとコラボしたり、作品が高値で取引されることに対する反発は、日本における「貧神話」が一因となっているのだという。

しかし最先端の技術や芸術にはどうしてもお金がかかる。美術でも科学でも、最高の作品や成果を生み出すには、優れた設備や専門的な技術を持つ人材が必要だ。最先端技術というのは製品が大量生産されていないために非常に高価だし、それを使いこなせる人も少ないので人件費も高い。お金があればあるほど、設備や人材に投資することができ、作れる物の可能性が広がっていく。個人的な利益というよりも、より良いものを制限なく作るために、やはりお金は必要なのだ。

結局執念が物を言う

『芸術闘争論』では、現代美術における重要な要素のひとつとして「圧力」が挙げられている。これは、自分の作品にかける執念、熱量といった意味のことだ。村上博士は、とにかく絶対に諦めず、今日の失敗は自分の失敗ではないと信じ、もう一度やればリベンジできる、そのためにはどうすればよいか。それを毎日毎日ひたすら繰り返す。自分の作品に対する批判を「あいつらはわかってない」と突き返す気概を持ちつつも、彼らの批判に一理あるとしたら何か、自分の作品の弱点をどうすれば補完できるか。絵の完成間際、最後の最後で完成に向かって根拠のあるなしにかかわらず、自分が良いと思う方向にぐいぐい持っていけるか。「ここらで終わりにしようか」となりそうな時に「とにかくあともう一時間だけやらせてくれ」「これでもか」と作品ににじりよる行為。その集中力と精神力。執着心。人生をかけているということが作品から感じられるか。それが村上博士の言う圧力だ。

この非常に生々しい「圧力」についての説明にはたいへん心を打たれた。科学でも全く同じだ。そしてこれは美術や科学だけにとどまらず、映画、アニメ、音楽、執筆、エンジニアリング、スポーツなど、モノや記録を生み出す行為全てに共通している普遍的な真実なのだ。結局タネも仕掛けもない。根性論と批判されようが、それをやり続けられる人にはかなわない。だからこそ全ての人に向いているジャンルではない。世界トップクラスで走り続けている村上博士が言うからこその説得力がそこにはある。

仮説は実証しなければ意味がない

アイデアを出すだけ、言うだけなら誰でもできる。アイデアを思いついただけでは評価はしてもらえない。説得力のある文章にするせよ、実際に実装してモノを作り出すにせよ、とにかく何かしらの形にしなければ意味がない
誰かがすごいものを作ってきて、「10年前にすでに同じこと考えてた」なんて言っても誰も評価してくれないどころか、負け惜しみの哀愁すら感じる。
美術家も科学者も、新しいアイデアをひねり出して、それを形にするという活動をやり続けている。

ルールの中で創造性を探る

村上博士は、スポーツと同様、現代美術には明確なルールがあり、そのルールに従ったうえで創造性を発揮するもので、日本の美大教育における「芸術は自由であるべき」という考え方が、日本の美術界を衰退させる諸悪の根源であると繰り返し強調している。ルールという首輪をつけないと社会とつながることができないという。

科学教育においては「自由さ」が重視されることはそこまで無いように思えるが、明確なルールがある中で創造性を探るという点では、ここでも美術と科学の共通点が垣間見える。

海外に出たほうがいい理由

『芸術闘争論』では美術業界の特性や村上博士自身がどのように美術活動に取り組んでいるかという内容だけではなく、あとに続く若いアーティストの育成についても書かれている。彼は若いアーティストには積極的に海外に出て行くことを勧めている。現代美術でも科学研究でも、作品や論文を評価するのは、世界各地にいるさまざまな背景を持った人々だ。言語だけではなく、阿吽の呼吸が通じない、全く異なる常識や価値観を持っている人たちに、自分の仕事の魅力を納得させなければならない。その感覚を掴むために一番手っ取り早いのは海外に出て、常識が違う場所で人を納得させる修行することだというのは極めて真っ当だ。

科学も現代美術も結局は西洋文化なので、いまでも西洋を中心に回っているのが事実だ。彼らからすると、日本は東の果てにある小さな島国。グローバルな時代になったとはいえ、西洋文化からみれば日本はまだまだ遠くにある国だという意識がある。そういうジャンルで活動する以上、日本にいて日本で有名になっても、世界に気づいてもらえるとは限らない。科学業界でも、いくら日本で名を馳せていても、欧米では名前ではなく「a Japanese lab」としか呼んでもらえないことが多い。世界中に出ていってネットワークを作り、存在をアピールしておくのが大切だという点も共通している。

老舗巨大チームと新進気鋭のチーム

美術においてはギャラリー、科学においては研究室に所属してキャリアを積む。『芸術闘争論』ではギャラリー選ぶ際に、大手のギャラリーと若いギャラリーの違いが書かれていて、そこにも美術と科学の業界の共通点を感じた。
老舗巨大チームには、お金と伝統のノウハウがある。優秀な人材も世界中から集まる。信頼されたネットワークもある。しかし考え方が古くなる傾向もある。一方、新進気鋭の駆け出しのチームは資金力や知名度こそないものの、とにかく何かをやり遂げてやろうという勢いがある。圧力がある。これは大企業とスタートアップの関係もまったく同じだろう。人によって好き嫌いや相性もありそうだが、どちらも経験して、そういう環境が存在するという感覚をつかむのが良さそうに思える。

日本の予備校文化の再評価とその可能性

日本には、大学受験だけでなく美大受験にも特化した予備校文化が存在している。予備校講師は、受験合格という明確な目標に向けて、試験の傾向と対策を徹底的に教え込むプロフェッショナルだ。日本の高校生たちは、予備校で数ヶ月から数年にわたって集中して勉強するため、基礎力が非常に高いのだ。

ただし、受験勉強は学問や教養とは一部重なるものの、その目的や手法は異なる。大学に入ってからは、受験勉強とは異なり、まだ誰も正解を知らない問いに挑む「研究」へとシフトするため、抽象的で概念的なアプローチが重要になる。

一方、欧米の教育では、討論やブレインストーミングが重視され、学生たちは既成概念を打ち破る訓練を受けている。そのため発想力や概念形成力には優れるものの、日本の予備校で培われたような技術的な基礎力は弱い。村上博士も、アメリカの美術学生たちの技術の低さに驚いた一方で、彼らの発想力には一目置いている。

この対照的なアプローチを見た村上博士は、予備校的な技術訓練と、アメリカ的な概念教育を組み合わせることで、最強のアーティストを育成できるという仮説を立て、実際にそれを実践している。短期集中で技術を徹底的に鍛え上げ、その後、その基礎を解体して再構築する。実際、村上博士はプロの美術予備校講師に技術指導を依頼し、それと同時に自らが抽象的な講義や討論を通じて、技術と概念の両面から若手を育成している。

この方法論には確かに説得力がある。日本が編み出した予備校的な教育を、ただ大学受験のためだけに活用するのはもったいない。このアプローチは美術だけでなく、科学やエンジニアリング、文学、音楽など、他の分野にも応用できるアプローチだろう。技術的な基礎力の徹底と、それを打ち壊す概念的な思考力のバランスを取ることが、あらゆるクリエイティブな活動において重要であり、この予備校的教育の再評価は、他の分野にも新たな可能性を開くかもしれない。

芸術は長く、人生は短し

この言葉は、ヒポクラテスによるもので、『芸術闘争論』の最終章タイトルでもあり、坂本龍一の最後の公式文章でも引用されていた。芸術や学問という活動は、一人の人生のスケールを超えて続く長い歴史の一部であり、私たちはその中でどのような役割を果たせるかを考えさせられる。

ぼくが死んでも、芸術は生き残る。そのための準備をし続ける。ただ、作品あるのみ。作品を後世に伝えるために全身全霊を込めて闘う。何時死んでもいいような作品を作る。なぜならそれが芸術家であるぼくの使命だから。

村上隆『芸術闘争論』より

村上博士は、美術活動は自分の死後、数百年経ったときに自分の作品が語られているかどうかで勝負しているので、いま現在の評価は関係ないと言っている。芸術家は美を歴史に刻印するためだけに生きているとまで言う。つまり、自身の活動を「美術史という流れの中の一過程」に過ぎないと捉え、個々の作品に対する現在の評価を超えた視点で物事を見ているのだ。ここまで俯瞰した視点を持つことは簡単ではないが、最前線で歴史を作り続ける人だからこそ持てる視点だろう。

もちろん、全ての人がこうした視点を持って活動しているわけではない。芸術家でも科学者でも、個々の名声や成功を追い求める人は多く、それも決して否定されるべきものではない。ただ、村上博士や坂本龍一のように、歴史の中で自分が果たすべき使命を深く理解し、俯瞰的に見据える人がいるということに、私は強く感銘を受けた。
彼らがヒポクラテスの言葉を引用する背景には、自分の役割をただ「残したい」というエゴや「貢献したい」という奉仕精神とは異なる、もっと大きな歴史的視点での自己の位置づけがあるのだ。

私自身は、まだそのような使命感に至っているわけではない。科学の世界の片隅に身を置く私にとって、日々の研究はただ「面白そうだ」と感じることから始まり、そこに小さな発見や喜びを見つけていくというプロセスだ。しかし、その先に、もしかしたら自分が少しでも長い歴史の一部を担えるかもしれないという希望がある。これは野心や名声を求める気持ちとは少し違う、自分なりの目標として心の片隅にあるものだ。

村上博士の言葉や生き方には、こうした私の小さな希望に静かに火をつけるような力がある。彼のように、何かを作り続け、その先にあるものを見据えた活動に触れることで、自分の道も少しずつ照らされていくような気がしている。

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