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心のむしゃくしゃメーターを下げる私なりの方法

餃子が食べたくなるのではなく、作りたくなる。
そんな時がわたしにはある。

料理がそんなに嫌いではない自分にとって、「食べること=料理すること」だ。
美味しいものを食べたい時に、自分で作ってみたいし、自分で作ったものを美味しいと言ってもらいたいと思う。
(もちろん誰かに作ってもらうご飯も好きです)

先日、麻生要一郎さんの本を読んでなんとなく、自分にとっての料理を考えた。

・料理は生活の一部であり、その日の気分や出来事に左右されること
・料理は自分にとっての感情表現であること
・料理をすることで、大切な人がわかるし、自分も大切にできる

ということを感じた。

自分で自分の気持ちがわからなくなった時や、なんだかスッキリしない時は料理をしてみる(もしくは「料理したくない」が答えになる)。
味付けや何を作りたいのか、そういったことで自分の様子がなんだかわかるような気がしたのだ。

餃子を作りたい時の私の気持ちはだいたいいつも同じで、たいてい「むしゃくしゃしている時」が多い。
仕事でうまくいかなかったり、パートナーや友人となんだかうまくコミュニケーションが取れなかったり、実家に対するもやもやがあったり。
そういった時に餃子が作りたくなる。

個人的に、餃子って料理の中でもクリエイティブな料理だなと思う。

・何の具にするのか考えること
・具材の組み合わせを考えること
・その前に調理方法(焼き・茹で・蒸し等)も考える
・包み方も調理方法や具によって考える(ひだを作る、作らない、端っこ同士を留めたり)
・出来上がった後、何の調味料で食べるかを考える

これらを出来上がりを想像しながら考えるのはとても楽しい。
どんな餃子を作ってどんなふうに食べるか、それを考えるだけでむしゃくしゃが30%減る。

そしてむしゃくしゃは残り70%、結構多い。
これを解消する手段のメインは、野菜を刻むことだ。

野菜を冷蔵庫から取り出し、どう刻んだら効率よくできるかを試行錯誤しながらザクザク刻んでいく。
包丁をいれる向き、まな板のスペース、切る大きさ、切り終わるまでのスピード…
途中、パラパラとまな板の外や床にこぼしてむしゃくしゃ度が戻ったりすることもあるけど、ここでむしゃくしゃは50%ほど解消され、残り20%。

今度は包む。
中の具の量や、いかに綺麗に包むか、早く包むかを考える。
時々チーズを入れたり、大葉を入れたりと冒険をする時があるが、そんな時はさらに楽しい。
メインの具との比率や、大葉は丸ごと入れて見栄えを気にしてみたり。
ここの工程は道具を使わず、自分の手で勝負だ。
小さい頃の粘土遊びを毎回思い出して、手を使って何かを作ることの楽しさを思い出す。手を動かすとなんだか頭も軽くなるようだから不思議だ。
こうしてむしゃくしゃはほぼ0%。

ここからは「食べること」に意識が向かい、楽しさが募ってくる。
焼き餃子ならば綺麗に焼き目をつけることにちょっと緊張しつつ、鼻をくすぐるいい匂いとパチパチという音にお腹がだんだん反応してくる。
水餃子ならば次第に透き通ってくる色に、プリッと美味しそうに湯に浮かぶその姿に、食感を想像して唾を飲み込む。

最後は餃子につける調味料だ。
このあたりは食卓に餃子を並べながら、すっかり笑顔。もしかしたら鼻歌とか歌ってるかもしれない。

醤油、ラー油、お酢のスタメンから、胡椒、ポン酢、柚子胡椒などなど…
水餃子の時は中華スープやペリメリ風のクリームソースにしてみたり。
人の好みによって食べ方は幾通りも。
餃子は一つの調味料だけでなく、一個一個を色々な味で楽しめるのもいいところだと思う。

ここまできたら、あとは冷めないうちにビールと一緒に味わっていくだけ。
こうしてむしゃくしゃが陣取っていた心がどんどん満たされていくのである。

作りたくなる、と言ったが、結局最後はおいしさに笑顔になっているので食べたいから作るんだろう。
食べることもだけど、作る過程も含めて私にとって餃子作りは大切な作業だ。むしゃくしゃを自然に笑顔に変えてくれる、楽しい気持ちにさせてくれる魔法の料理なのである。
ここまで書いてきて、料理は自分の心をコントロールするものなのかもしれないと思い始めてきた。

365日自分の気分や体調が変わるのと同じように、料理に対しての気持ちも365日変わる。
年齢や環境で付き合い方が変わっていっても、料理をすることがいつもそばに自然な形でいてくれればと思う。

餃子よ、いつもありがとう。
今度は友人たちと餃子パーティでもしよう。


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