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恋に落ちた。それを何度目かの勘違いにした。
オンラインで繋いだ画面越しの6人と金曜の23時。落ち着いた空気と議論の余韻。そこに流れ込んできた疑問が、私の中に染み入っていくのを感じました。
なぜ人間は恋をするの。
そう誰かがポツリと問うた時、別の誰かが続けざまにこう答えました。人には生まれながらに3つのタスクがあって、その最後のタスクが「愛のタスク」なの。人を愛し、結ばれ、子供をつくる選択をするかに向き合うことなの。
私は決してアドラーが嫌いではないし、むしろ嫌われる勇気はいい本だったと思っています。でもその夜だけは、それは「なぜ恋をするのか」を形どっていないような気がしました。なぜ不自由な思いをしてもつがいになって子を育てようとするのか、という答えな気がしたのです。そしてそれは、こんなに苦しいのに何度も恋をしてしまうことを表していないと私の直感が感じていたのだと思います。
人恋しくて、恋に恋をすることがあります。
私は昔から、常にそうだったかもしれません。人に愛されているという実感が欲しくて、甘やかされたくて、誰かに頑張っていると認めてほしくて、その相手が特別な人だったら良いのにと夢見ていました。
それは本当に誰かを思っていたのではなくて、恋しいと思われたかったのだと今ではわかります。
ひとりの問いかけと、別の誰かの答えと。ついさっきまで目の前にあった会話が、今はガラガラと私の記憶の扉を開いていました。
いつの間にか、期待するのが怖くなりました。
本当に恋をしたときは、気づいたら落ちていました。
溺れていました。
だから私はいつからか、だめになる理由のある人しか、好きだと認められませんでした。
認めなければ、恋にならないと思えるくらいには諦めを積み重ねてきました。本当はそんな風にやめられないとも知っているんだけれど、だったら気づいてしまう前に芽を摘んでしまいたいと思っていました。そうやって、私はほんの少しの好意も好奇心も、なかったことにせっせと土に埋めてきました。
この人いいなあと思った相手に、みんなはどんなアプローチをするんだろう。人はどうやって生きているんだろうかと同じくらい、それは私にはわからない問いでした。
それなのに、どうして人はまた恋をするんでしょう。好きになって苦しくて、両思いになれてもなれなくても悩むのに、辛いのに。ああ、気づいたらまた人を好きになっちゃたよって思うのです。
数年ぶりに、ちゃんと恋愛をしようと思いました。そして、連絡を取り合ううちにいつしかその人のことをいつも考えるようになっている自分に気づきました。その人のおすすめの映画を観あさって、その人はどうやって過ごしているのかを考えて。
でも、それもあっけなく終わりました。どうして突然連絡が来なくなったのかも、どうしてあんなに楽しみにしていたデートがないものになっているのかもわからないままに、私の前には拒絶の苦味だけが残されていました。
どうして。そう思う反面、私にはこうなる予感がありました。
なんだ、そうだよね、知ってたよ。そう思って何も感じないようにする自分がいました。
その夜、私は自分がきちんと1から人を好きになるかもしれないその道筋を、ちゃんと自分で叩き割って歩きました。自分で自分に言い聞かせて、日本酒で上書きして恋の味なんて忘れました。
誰かのことを考えていた時間をお酒でかき消すことはできないけれど、そもそも予防線を張っていた自分の心はしんと冷えていたのです。それでも酔っぱらいもせずに、ただ淡々と恋心からぬくもりが消えていくのを傍観していました。
好きだなんて、笑っちゃうね。
そう言って安全地帯から出られないことが悪いことだとは思いません。でも時々ひどく虚しくなって、自分の葬ってきた勘違いの死骸を見つめてみたりするんです。
私が温め損ねたのか、それとも最初から無理だったのか。
冷え切ったその過去のかけらは、それでもまたきっと人を好きになってしまうと伝えているかのようでした。だったら今夜は、静かに筆をとります。
いくつめかの勘違いの温もりが、完全に消え去る前に。
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