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試着室の中。見ているのは服ではなくて、ありのままの自分かもしれない

男の人と自分の洋服を買いに行くのは、初めてのことでした。私は人と一緒に買い物をするのが苦手だから。

だから試着室の鏡の前で一周してみた時、それを待つ恋人の存在がいることはなんだかとても不思議に思えました。いつもならひとりのこの時間。試着室は、ひとりと頭の中の彼との他愛もない空想の時間でした。

「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う」尾形真理子

その鮮烈なタイトルは何年も前から、一人で買い物をする私に染み付いていました。試着室で何度、誰かの顔よりも先にこの言葉が思い浮かんだことでしょう。

買い物をして一人でカーテンの中に入る時。今誰のこと思い出した、これって恋かな、などと甘いおままごとのような思考を転がしていました。恋は知っていたけれど、大人になるということをよく知らなかった学生時代。

タイトルだけを読んでいた数年前の私は、ただその服と試着室をきっかけに、恋に恋していただけなんだと思います。「あ、誰を思い浮かべた。」それは、私が恋と信じたかっただけのものかもしれません。


実際に読んでみると、私は二つの勘違いをしていたことに気づきました。
ここで言う本気の恋は、必ずしも現在進行形ではないかもしれないということ。
そして、服は自分に何かを足すためにあるのではなく、今ある魅力を引き立たせてその他を削ぎ落とすためのものだということ。

本気の恋だと思い込みたいから可愛いと言ってほしい誰かを思い浮かべるみたいな、そんな表面的なことではありませんでした。その人の一人の時間に滲み出てきてしまうほど、常にその誰かはその人の中に存在するんです。思い出すというより、それは祈り。あの人の目に映る自分が、こんな人間でありたいという祈りの儀式のようだと思いました。

だって試着室って、究極にひとりのために時間を使える場所なんです。自分が満足いけばそれでいい。なのに、そこでも思い出すほどに侵食しているその人は、きっとどんなときにでも現れて、一瞬で心を揺さぶることのできる人。

そしてそれは、今溺れている恋だけではないのかもしれません。過去に愛した人が、それが一番本気の恋だったのだと試着室で今の自分に教えてくれることもあるかもしれないと、そう思います。
きっと悲しさばかりでなくて、過去に対する慈しみでもあります。あの時祈った自分は、その時計を止めてしまっていないだろうか。日常に紛れてしまった問いが、向き合うことを求めてくる場所なのでしょうか。

試着室の中でわたしたちは服を見ているようで、本当は自分のありのままを見ています。

こんな自分になりたいからこういう服に着られてみる。服で武装してみる。
着飾るなんて言葉があるから、てっきり服というのは自分に何かを加えてくれるものなんだと私は思っていました。

でも、この本を通して思います。
確かに、なりたい自分に近づけてくれたり、自分を可愛く見せてくれたり、ちょっと勇気をくれたりする服をみんな求めています。でも、それって無理やり服のイメージだけ借りようとしてもうまくいかないんですね。

服はただ、その時の自分が持っている魅力へのスポットライトなんだと気づきました。

その時の自分の最も輝くものを活かしてくれる服。体型だったり、雰囲気だったり、メイクやネイルだったり、顔立ちだったり。自分が持っているものを最大限に引き出せた時、鏡の前でも誰かの前でも、堂々とできる自分が生まれるんだと思います。

そして余計なものはいらないということ。付け足すほどにいいのではなくて、引き出したい魅力以外のところはあえて削ぎ落とされていること。

私がこの本は学生よりも社会人、アラサーの女の子にいちばん刺さるだろうと思った理由はここにあるかもしれません。ただいろんな恋愛を知ったからという理由だけじゃなくて、削ぎ落とす美しさを楽しめると思うからです。

そうすることで、自分がもともと持っているものに近づいていきます。服を着て何かを加えているはずなのに、自分の状態を服がありのまま語ってくれるかのようでした。そしてそれを聞いてくれるたったひとりのセレクトショップの店員さん。彼女の落ち着き、優しさ、可愛らしさが、心地よく読者まで試着室へと誘います。

この物語を読んだ後、私は昔のように試着室ではしゃいだりはしないでしょう。

鏡の中にいるのは素直にいいと思える女の子か。私はわたしという固定概念に固執してアップデートをやめてしまってはいないか。そして、大切な人が見てくれる自分を、ちゃんと愛せる服を身に着けているか。
ままごとのように誰かを思い出す代わりに、こんなことを考えるのだと思います。

この恋も、あの頃も、きっと浄化してくれるやさしい言葉が見つかる一冊です。






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