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少し大人になった私は、エッセイを読めるようになった

日曜日の午後、恵比寿の有隣堂で本を買い込んでいた。「誕生日に歳の分だけ本を買う」というご褒美に、鼻の穴を膨らませながら店内を練り歩いたのだ。

その日の収穫は10冊分。そして私が驚いたのは、その中にエッセイ本が4冊もあったことだ。

なぜ驚いたか。それは私はエッセイが嫌いだったはずだから。

昔から本が好きで、中学校の頃には文庫を自分で買うようになった。まだ好きな作家さんもわからず、夢中で気になる表紙を見つけては読んだ。本棚をお気に入りが埋めていく充足感が生活の彩りだったのだが、エッセイ本は決して買わなかった。

文庫の裏表紙に、「エッセイ」とあればことごとく弾いた。他人の日常が穏やかに流れる様子を覗き見ることに魅力を覚えなかったのだ。その食わず嫌いはなんとなく、社会人になるまで続いていた。

ところが自分でへなちょこながらエッセイを書くようになって、少しずつ他の人の作品に興味が湧いてきた。そもそも「エッセイ」という括りのものを読んだことがないのだ。

それなのにエッセイらしきものを書くことになってしまって、ああ他の人がどんなふうに表現しているのか、何を表現しているのか、私は全く知らなかったと思い至った。

そんな時友人に勧められたオードリーの若林さんのエッセイを読んで、その面白さにやられてしまった。こんなに誰かの足取りや思考をリアルにたどるって楽しいことなのかと、23歳にして衝撃を受けたのだった。

学生だった頃の私には、生活とか現実感とか、そう言った手触りや冷静な態度が退屈だったのかもしれない。ファンタジーとか白熱とか未だ見ぬ恋愛とか、主人公が誰でもないからこそ自分を投影できる物語に強く憧れたのだと思う。

歳を重ねるごとに、好きな小説のテイストは変わっていった。今ではほとんどファンタジーは読まず、登場人物たちと同年代になったことで見える視点のリアルさに共感したり救われたりしている。

自分が仕事をして恋愛をして周囲が家庭を持ち始めるとき、もはや恋愛小説も仕事小説も、昔見ていた手の届かない想像の世界ではなくなっていくような気がした。

描かれているのは、自分も歩いていたかもしれない世界や似たような経験となり、フィクションと生活の境目はゆるゆると曖昧になっていく。

そうしたら、急にエッセイのリアルさが腑に落ちるようになったのだ。自分をどこか投影して読む小説の読み方とエッセイの読み方が、自分の人生経験が積まれたことで似てきたのかもしれない。

こうして私のエッセイに対する抵抗感はどんどん薄れた。今では率先して購入を検討する分野の一つとなっている。

学生時代に読み漁っていなかったから、ほとんど片っ端から文庫を読み漁ってしまった好きな作家さんでも、エッセイ本だけは未読が残っているのは少し嬉しい。

それを読書と共に進んでいく生活の、小さなご褒美のように感じている。

*おすすめのエッセイがあれば、ぜひ教えてください。

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mayu
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