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認知症の祖母のまぼろしを、全て否定しないこと

「私のことをみんなボケたっていうから。そういう立場に追い込まれている。」

祖母は私と2人きりの時、私に向かって目を見開いてそう言いました。もう、こんなよくわからない病気になってしまった。そう嘆く祖母を見続けることが苦しくなって、祖母の皮ばかりになった小さな手を握る手に力を込めます。

祖母は、わかっているんじゃないかな。私たちが思っているより、自分自身が迷惑をかけているという感情や、もう弱っていると思われているという空気を敏感に感じ取っているんじゃないかな。

そういう時に、私はとても悲しくなります。おばあちゃんのせいではありません。高齢で、病気も持っている祖母が、食事もトイレも起き上がるのにも人の手を借りるのは仕方のないことです。

けれども祖母は小さな声で言います。ごめんねえ。ごめんねが毎日毎時間祖母に積もって行きます。

近くで介護をする家族は、やはり否定的な言葉を使ってしまうこともあります。危ない時、心配な時には、いつもより強い口調で諭してしまうこともあると思います。あるいは、今はこれをしないと、次はこうするよ、と従わせることも生活の中では必要になるのだと思います。

でも、祖母はその度に傷ついたり、自分はできないものとはなから諦めて感じる心を弱らせていくのではないかと思うんです。

それが、悲しいけれど、どうしようもない。私が一緒にいる時には、なるべく無力感を与えないような言葉を使いたいと思うし、やりたいと言ったことがもう体力的に難しくても、じゃあやってみようかと試せるところまで付き合ったりします。

でもそれは毎日じゃない。毎日だったら、あるいは1人きりだったら、とてもこんなふうな対応は続けられない。そう本心では思ってしまう自分もいます。


先日私と祖父と祖母の3人で留守番だった日曜日、祖母が「向こうのほうに、おんなじ幅のものがあるね」とゆっくり壁際を指差しました。

確かに祖父の本棚には、辞書のように分厚い本が規則正しく並んでいました。「本当だね、世界の地理って本が、同じ幅で並んでるね、とっても太いね」

そう答えたら、祖母は嬉しそうに声を高めたのです。「ああ、本当?並んでる?」

この頃祖母は、見えないものが見えると言ったり、聞こえない音が聞こえ続けていたり、いない人をいると言い張ったりします。

私が一緒にいる時にも、自分の介護ベッドの中に誰か寝ていると思っていて、必死に「この人は大丈夫かな」と言いながら自分の左の脇腹に羽毛布団を積み上げていました。

けれども、祖母の発言を肯定した後の反応を見て、いつも否定されるのはとても辛いことなのではないかと改めて思いました。

祖母はきっといつも、そんなものはないと言われるのがどこかでわかっていて、指をさしてあそこに何かあるよというのです。

ないよ、聞こえないよ、いないよ。

おばや母を責める気持ちは全くありません。2人ともフルタイムワーカーで在宅勤務もゼロの業態なのに、平日から1、2時間おきに夜起こされる生活をしているのです。

そこでずっとそういう言葉を聞いていたら、ずっと話を聞いて相槌を打ち続ける方が難しいことです。祖母への愛情や責任感がなければ、そもそもそういう生活すらできないと思います。

私が祖母と会話するのは、週に2時間から6時間程度です。そんな私には、日常に口出しをする権利はないんです。

でも、祖母にとって、もし私が認識されていて、何かを言っても否定されないと安心されるような存在になれたらいいと思います。もしこれから私の存在が祖母の中で完全に消えてしまっても、一緒に過ごすその時々に、なんだか認めてくれる人がいるという喜びを与えたいと思います。

祖母の人生の最後の記憶に、少しでも肯定される言葉のかけらがたくさん残ってほしいです。私の言ったことで間違ったことばかりじゃないぞ、まだ世界と完全に分離してしまったわけじゃないぞ、と感じてほしいです。

そんなふうに祖母との時間を大切にできたら。それが孫である私の関わり方であってもいいと思うし、私はただ祖母の喜ぶ声が、また聞きたいのです。

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