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【コラム】むじょうの由来と「死」と向き合う理由

どうも、変化にもっと優しくなりたい、むじょうの前田です。

今日は株式会社むじょうの社名の由来について書きます。
「無情」ではなく「無常」です。

むじょうとは、常ではない、という意味です。どんな物事も永遠ではないということ。
そして物事を永遠ではなくただ移りゆくものとして観る。ただただ観る。それが無常観です。


時代の流れの中で、新しいものがどんどん生まれています。一方で、古いものは役割を果たし淘汰されていきます。
これが自然の摂理であり、無常です。

一方で、今は「淘汰されゆく側の変化」に対して過度に敏感になっているように思います。

「消滅可能性都市」「空き家」「耕作放棄地」

これらは全て「問題」とラベリングされます。
変化をただ観る、という無常観が失われている状態とも言えるでしょう。
無常観というメンタリティがあって、物事が軟着陸できます。

変化の激しい時代だからこそ、無常観というメンタリティを再興しよう。終わりという変化に優しい眼差しを向けようということで、社名を「むじょう」としています。

無常観というのは日本の風土が育んだメンタリティだと思っています。
日本は災害大国で、地震も津波も度々きます。
形あるものは崩れ、生命はいつか終わる。自然には抗えず、日々移ろいゆく。
悲しい気持ちはいつまでも続くものではなく、喜びも然り。また別の悲しみや喜びもやってきては消えていく。
特に日本はそれを感じやすい風土だったのでしょう。

なぜこの無常観というメンタリティを失われつつあるかというと...

死と出会う機会が減ったから、という仮説を持っています。
昔から死へのタブー視はありました。むしろ、今よりもタブー視されていたでしょう。ですが、その死は日常にありました。

野垂れ死ぬ、という言葉がありますが、野垂れ死ぬ人の数は相当減っているでしょう。かつては自宅で亡くなるというのが主流でしたが、今はほとんど病院で亡くなります。

死を排除した、というよりは日常的に死と出会わなくて良くなった、という社会の進歩でしょう。
「進歩」という言葉を使いましたが、良い面ばかりではありません。

人はいつか死ぬ、という当たり前のことを忘れかける社会になり、人生の締め切りを意識して「生き切ること」が難しくなっています。
また、血縁と紐づいて死が扱われることで、亡くなった方のご友人がお別れできないなど、「あいまいな死」が増えています。


だから私たちは、無常観の再興というビジョンの中の「死」というテーマに向き合うところから始めています。
大きく2つ、

ご遺族はもちろん、故人の友人も開式できるオンライン追悼サービス「葬想式」

生の尊さを再確認する「棺桶写真館」

といったサービスを提供しています。
むじょうという社名の由来から、今の取り組みをしているつながりの説明がようやくできました(笑

「その思想、いいね!」という方は今後ともむじょうをよろしくお願いします!
「ちょっと待て、議論したい」という方ともお話ししてみたいです。

下に各SNSを掲載させていただきますので、もしコメント・ご意見等ございましたら、お寄せいただけると嬉しいです!

それでは、今日はこんなところで。最後までご覧いただきありがとうございました!

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