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【小説】ホテル・カリフォルニア#4

第4話:惰性なんかじゃなく


 あなたはなににつけてもゆっくりだが、私はなににつけてもせっかちな性格だ。たとえば食事がそう。私はどんなお店に行っても、十秒あれば料理を決められる。でもあなたはメニューを哲学書のごとく読みこみ、五分でも十分でも迷っている。そのうえ食べるのも遅いときた。いつだってそう。あなたが半分も食べ終えないうちに私の皿は綺麗になってしまって、小っ恥ずかしさをデザートにコーヒーを飲むなんてことが数えきれないほどあった。

 会社の近くのイタリアンレストランでパスタを食べていた。あなたとではない。会社の同期の女の子と。そう、あなたと出会ったバーベキューパーティーを開いたあの子だ。

 食後に無料のアイスコーヒーか紅茶がついてくる、お得なランチメニューを出しているお店だった。このあたりではそこそこの人気店だが、それゆえにお昼時の客の回転が速く、外にはいつも行列ができている。相手の子はもう少しゆっくり食べたそうにしていたけれど、私はこれくらいさばさばしているほうが好みだった。もしかしてあなたがどうとか関係なく、私は単に早食いの女なのだろうか。いや、きっと気のせいだろう。気のせいということにしておく。

「彼とはまだ続いてるの? もうすぐ二年だっけ」

 和風スープパスタを食べながら、彼女は訊いてきた。

「続いているかいないかと言えば、続いてる」私は残り少なくなったカルボナーラをずっとフォークに巻き続けていた。「もうあんまり読まないけど、定期購読し続けてる雑誌みたいな関係性っていえばわかる?」
「それって続いてるの?」
「ええ。ときどき手に取るし、思いだしたようにデートをすることもある」
「ただの惰性みたいに聞こえるけど」
「あらゆる関係性は惰性に落ち着くんだと私は思ってる」

 そう言ってパスタを頬張った。フォークに巻きすぎたせいで、頬に餌を溜めこんだハムスターみたいになってしまう。

「もう。私の前でそんなこと言わないでよ」

 彼女はわざとらしいムスッとした顔をした。

 私たちはもともと仲がよいわけではなかった。むしろ、悪かったといったほうがいいだろう。私はどちらかというと地味で、彼女は明らかに派手。住む世界が違っていたし、違うことを理解していたからこそ互いに距離を取っていた。もちろん、表面上は仲がいいように装ってはいたが、心のどこかで相手を見下していたのだと思う。とくにあのバーベキューパーティのあとからは顕著だった。私たちは陽キャと陰キャの象徴みたいな枠組みのなかに互いをはめこみ、思考のなかで砲撃しあっていた。

 そんな緊迫した関係性が変化したのは二ヶ月ほど前、彼女が社内で結婚を発表したときである。妊娠が発覚し、急に決まった結婚だった。彼女が薬指のリングを見せながら笑っているのを、私は遠くから見つめていた。さすがに今日ばかりは武器を下ろしてお祝いの電報をいれるべきだろうと思い、彼女が夜一人で残っているときを見計らって声をかけた。

 結婚おめでとう、と私はなるべくシンプルな言葉を送った。同時に、心のなかでは最悪のケースを想定してもいた。すでに人妻気分になった彼女が、勝ち誇った顔でなにか言ってきたらどうしよう。もしそんなことをされたら、私は握りしめた拳を振りかざさずにいられるだろうか。

 けれども彼女はいつまでたっても口を開こうとしなかった。顔をうつむかせ、きつく結ばれた唇がふるえていた。

「どうしたの?」

 と私が訊くと、

「どうしよう」

 という言葉とともに、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 マリッジブルーとマタニティブルーのダブルパンチだった。聞けば、結婚相手はあのバーベキューパーティの参加者のひとりだという。驚くなかれ、なんとあの日にセックスした男女は私たちだけではなかったのだ。

 彼女曰く、婚約者は優しいけれども頼りなく、旦那にするには少し物足りないという。もっといい男があらわれるまで遊びとして付きあうつもりだったのだが、思いがけず妊娠してしまって、あれよあれよという間に婚約とあいなった。

「私、彼と本当にうまくやっていけるのか、自信がないの」

 彼女は将来のビジョンを完全に見失っていた。二人きりのオフィスで彼女は私の胸に顔を押しつけて泣き、お気に入りのブラウスは化粧ですっかり汚れてしまった。

 ずっとこの瞬間を待っていたはずだった。目の前で絶望する彼女を見ながら愉悦の笑みを浮かべる瞬間を。でもこのときの私には愉悦も優越感もなく、ただどうすれば彼女を元気づけられるか、そればかり考えていた。私は彼女の頭を撫でながら、ふいに思いだした言葉を言って聞かせた。結婚するなら七十五点くらいの男がいいのだ、と。それはかつて父との結婚理由を訊ねたときに母が返した答えだった。最適解とはとうてい思えないが、それでもなにもないよりはマシだろう。あたりまえだが、両親が離婚したことは伏せておいた。

 このできごとをきっかけに、私たちの戦争は終結した。不思議なものだ。最も苦手としていた人間が、いまとなっては最も親しみやすい人間になっている。たぶん私は、彼女が産休に入るまで毎日ランチを一緒に食べるだろう。惰性ではなく、自ら望んでそうするに違いない。

 ちなみに彼女には内緒だが、じつは母の言葉には続きがある。結婚するなら七十五点くらいの男がいい。過度な期待も失望もせずにすむから。いったい彼女の婚約者はどちらに転ぶだろうか。友として、どうか八十点以上になることを願うばかりだ。



【次話】

【自作まとめ】


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