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【小説】ホテル・カリフォルニア#10〈終〉
最終話:ホテル・カリフォルニア
結局、バーベキュー場に到着したのは昼過ぎだった。雲一つないカンカン照り。せっかちなヒグラシが鳴き始め、周囲の家族連れはすでにデザートを食べ終えようとしている。麦わら帽子を被った男の子がいまさら準備を始める私たちを見てなにかを言いかけ、母親が慌てて彼の口にいちごを詰めこんだ。私たちが笑顔で手を振ると、男の子は両手を大きく振り返してくれた。
「外にいるんだから、蚊がたくさん寄ってくるのかと思ってたけど、そんなこともないのね」
私はカルビを頬張りながら言った。
「気温が三十五度を超えると、蚊の活動は弱まるんだ」
「いまって何度?」
「三十八度」
あなたは右手にトング、左手にスマートフォンを持っていた。
「蚊だけじゃなくて、私たちも活動を弱めるべきね」
「サウナに入っているみたいだ」
あなたはお肉をコーラで流しこみ、私はあなたの喉の動きを見つめながらビールを飲んだ。するとそれに気づいたあなたは、なにを勘違いしたのかクーラーボックスのなかから缶ビールを取り出して渡してきた。私は三分の一ほど残っているビールを慌てて飲み干した。
あなたは肉の焼き加減を注視しながらずっとうんちくを語っていた。サーロインという名前は、イギリスのヘンリー八世がそのあまりの美味しさにサーの称号を与えたことに由来する説があるらしい。それを聞いた私は、「私はハラミ男爵と名付けるわ」と返した。つまり私は相当酔っていたのだ。
バーベキュー場を出るころには月が輝き始めていた。麓へ続く坂の左手には山がいくつもそびえ、そのぎざぎざの輪郭を、夕日の名残が赤く縁取っていた。私は星の光を探した。いちばん強く輝く星と、いちばん弱く輝く星の両方を。
案の定、帰りも道に迷ってしまった。カーナビの画面上だと車はやはり森のなかを進んでおり、私たちはさながら夜の開拓者だった。私がスマートフォンで道を調べてあげて、あなたに事細かな指示を出した。車はやがて県道に出て、脇道に入った。遠くに見覚えのある建物が姿を現したところで、あなたは私があのホテル・カリフォルニアに案内していることにようやく気づいたようだった。
「懐かしいなあ」安っぽいネオンを見ながら、あなたは感慨深げに言った。「でも、どうしてここへ? 今日はエアコンは壊れてないじゃないか」
「いいの。入って」
「でも」
「入って」
ホテルを通り過ぎようとするあなたに私はぴしゃりと言った。あなたは訝しみつつも、車を暖簾の奥へと滑りこませた。
「きみ、なんだか変だよ。好きでもないバーベキューに行きたいって言い出したり、遠回りになる道を案内したり、このホテルに入れと言ったり。いったいどうしたの?」
「思い出の場所を巡ってるだけよ。記念日なんだし、別に変じゃないでしょう」
フロントに頼んで案内してもらった最上階の部屋は、二年前からなに一つ変わっていなかった。南側に窓があって、その反対側にベッドがあって、窓際にはソファとテーブルが並べられている。天井の雨染みもそのままだった。浴室の扉を開けると、やはり浴槽の底には水垢がこびりついていた。私は今日、この浴槽になにかを捨てていくだろうという気がした。過去か、あるいは未来と呼ぶべきものを。
ソファに腰を下ろすと、柔らかいクッションが身体を包みこんだ。急に身体の重みが増したような気分だった。食べ過ぎたのかもしれない。
「前に来たときは、このあとなにをしたかおぼえてる?」
私は入り口の近くに立っているあなたに訊ねた。
「二人でお酒を飲んだんだ。断るぼくにきみが無理やり勧めてきて」
「当たり」
私は冷蔵庫のなかから缶ビールを二本取り出し、片方をあなたに放り投げた。
「ぼくがお酒に弱いのはもう知ってるだろう。二年も付き合ってるんだから」
「そうね。私たち、二年も付き合ってるのにね」
私たちは黙ってビールを飲み続けた。なにかの修行か、あるいは罰みたいだった。十分のあいだに私は二本を飲み干し、あなたは一本目の半分以上を残した。
「あなた、真っ赤よ」
私はあの日に放ったのと同じ台詞を言った。
「きみも真っ赤だ。肩まで真っ赤」
あなたもあの日の言葉を繰り返した。こちらの意図を理解し、あえて乗っかったといった感じがした。
ただ、私はあの日と違い、ソファから立たなかった。あなたはそれに戸惑いながらも、こちらに近づき、キスしようとした。
唇と唇が触れる直前、私はあなたを突っぱねた。
「あのとき、こうしておけばよかったんだわ」
すると、いつもは冷静なあなたの表情が一瞬だけ歪んだ。驚きか、あるいは失望によって。しかしそれはすぐに消えてなくなり、ふだんのあなたが戻ってきた。
「どうして?」
「わかってるくせに」
あなたの能面のような顔を見ていると、急に怒りがこみ上げてきた。私は缶を思いきり投げつけた。缶はあなたの胸に当たり、床の上に転がった。わずかに残っていたビールが飛び散り、水色のTシャツに小さなしみを二つ作った。
「待ってたのに。ずっと待ってたのに」
制御がきかなくなっていた私は声が嗄れるほど叫んだ。本当は冷静に語り合おうと決めていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。怒りの奥底に自分への失望が滲んでいく。
「薬のこと?」
あなたはようやくその言葉を口にした。
「それだけじゃない。もっと根っこの部分にあることよ。ねえ、なにがあなたを苦しめているの?」
あなたは答えなかった。それどころか、黙って首を左右に振ったのだ。私は叫びながら、テーブルに置いてあった二本目の缶を投げつけた。
「いつもそう。肝心なことはなにも話してくれない。それがあなたって人なのよね。でも、私はもうたくさん。もう、これ以上は無理よ」
私は立ち上がり、荷物をまとめて部屋を出ようとした。背後からあなたの批判めいた声がぶつけられた。
「きみだって、なにも話してくれなかったじゃないか」
その思いがけない反撃に、私は屹度なって振り返った。あなたは泣いていた。それは、私がおぼえている限り、初めて見たあなたの涙だった。私はホテル代がわりの一万円札をあなたに投げつけると部屋を飛び出した。
あの日と同じ熱帯夜のなかを、私は駅まで走った。分解されずに残っているアルコールが一気に体内を駆け巡り、視界を歪めていく。それでも足を止めることだけはしなかった。たったいま捨ててきた思い出や悲しみの足音がすぐそこに迫っている。それらに追いつかれないように、とにかく走り続けた。
十四歳のときのことだ。夜中、私は父と母の言い争う声で目を覚ました。寝室からだった。喧嘩などしない両親だったから、私は不安とわずかな好奇心にかられて寝室へと向かった。
部屋の扉がわずかに開いており、ベッドに腰掛ける母の姿が見えた。
母は泣きながら、「どうしてあなたはなにも言ってくれないの」と言った。それから、「あなたのことをちゃんと知りたい。あなたと一つになりたいのよ」とも。
けれども父は、「一つにはなれないし、ならないほうがいい。二つのままでも夫婦にはなれる」と答えた。
父の姿は扉の陰に隠れて見えなかったが、まるで原稿を読み上げているかのごとく落ち着いた声だった。母はテーブルの灰皿を手に取り、父に投げつけた。ゴツン、という鈍い音がした。私は急いで自分のベッドに戻り、布団を頭から被った。いま見たことはすべて忘れなければ。そう言い聞かせているうちに夜が明けた。朝食の席につくと父の頭には包帯が巻かれており、なにも知らない兄はひどく心配したが、父はベッドから落ちただけだと嘘をついた。
半年ほどまえ、私はふとこのできごとを思い出した。まさにあのときと同じ真夜中で、隣ではあなたがこちらに背を向けて眠っていた。私はこのおそろしい記憶を忘れ去ろうとしたが、どうしても頭にこびりついて離れなかった。そして気がつけば、リビングからガラスの灰皿を持ってきていた。なぜこんなことをしているのか、自分でもわからないまま。
灰皿を振りかぶった次の瞬間、私は息を呑んだ。
ベッドの向こうの姿見にうつるあなたと、鏡越しに目が合ったのだ。
あなたは横になったまま、二個の瞳を大きく見開いて私を見つめていた。私は慌てて灰皿を元の場所に戻し、あなたの隣に滑りこんだ。翌朝、あなたはそのことについて問い詰めなかった。私たちはいつものように目覚め、いつものようにキスをして、いつものように愛し合った。それが私たちの関係性のすべてだった。
母は私が小学生のころにはパッチワークキルトを始めていたけれど、のめりこむようになったのはあの夜のことがあってからだ。あのできごとについて母と話をしたことはない。ただ、ひとつだけ確かなことがある。それは、母がずっと待ち続けていたということだ。父が語ってくれるのを。あるいは、母自身にそれを聞くだけの勇気がわいてくるのを。母は父と別れたあともキルトを続けていた。いまもまだ続けている。なにかを待ち続け、またなにかから逃げ続けている。
駅に着くと、ちょうど電車が停まっていた。前は三十分も待ったのに、どうしてこんな日に限ってタイミングよく鉢合わせるのだろうと不思議だった。あろうことか、私はまだここからなにかが起こるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。電車に乗りこむ瞬間、視線がおのずと改札口のほうへと向いた。けれどもそこにあなたの姿はなく、電車は無人の駅を出発した。
私は近くの席に腰を下ろし、多少の吐き気にたえながら額の汗を拭った。車内には私と向かいの席に一人の女性が座っているだけだった。彼女は泣いていた。きっと彼女も失恋したばかりなのだろう。私はお節介にも、慰めてあげなければと思った。そしていい言葉はないものかと記憶をたどり、思いついた言葉を声に出してみた。
「人生の本質は孤独。だからこそ、人は孤独に打ち勝つ強さを持ってる。そういう強さを、あなたは持ってる」
言い終えてから、目をごしごしとこすった。すると目の前にいたはずの女性は消えていた。いや、実際には女性なんておらず、窓に私の泣きっ面が映っているだけだった。私は繰り返した。そういう強さを、あなたは持ってる。電車はすでにホテル・カリフォルニアをとおり過ぎ、朝焼けに明滅するネオンが遠くに見えるだけだった。
了
【自作まとめ】