似て非なるもの:倉橋由美子著『合成美女』
街も秋めいて、朝晩などはいくぶん涼しくなってきました。
晩に窓を開けて涼んでいると、『蚊帳出づる地獄の顔に秋の風』という加藤楸邨の句を思い出します。これは男と女の織り成す地獄ですが、秋の涼しさがあれば地獄もまた住み易しといったところでしょうか。
とはいえ、できることなら地獄とは無縁の日々を送りたいものです。
ほかにも秋といえば、芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋などあげればきりがありませんが、やはり本好きの私としては読書の秋が欠かせません。
今回ご紹介するのは、倉橋由美子の短編『合成美女』。倉橋作品にはSF的要素のあるものも見受けられますが、ここまでSF的設定を前面に押し出した作品はそう多くありません。また倉橋かと言われてしまいそうですが、好きなのですから仕方がないですね。
前回の『モイラ』(ジュリアン・グリーン著)と違って、本作は何と電子書籍でも読むことができるのでたいへん便利です。
本作についてお話しする前に、簡単なあらすじを述べるとしましょう。
合成人間と呼ばれる人造人間が世に生み出された時代。合成人間は商品として高値で取引され、彼らを所有し、使用人として働かせることは富裕層のステータスとなっていた。夫と二人暮らしの倫子は、合成人間の美女ゑり子を購入する。初めはゑり子を偏愛し、いろいろな服を着せたり化粧をさせたりして楽しんでいた倫子であったが、ゑり子が人間並みの感情と知性、そして生殖能力まで有していることを知るにつれ、心のなかに不穏な感情が芽生えていく。やがてそれは、ゑり子と夫が不貞を働いているのではないかという疑いに変わっていき、倫子はついにある行動に出るのだった。
合成人間が隣にいる生活というのは、どういうものでしょうか。同じSFに登場するものにアンドロイドがありますが、あれはあくまで機械でできた人間です。ではサイボーグはというと、機械化された人間という意味合いが強く、こちらは人間と見做されることが多いように思います。ですが、合成人間は身体のつくりはまったくといっていいほど人間であるのに、社会的には人間と定義されないのです。
倫子は自分が人間であるという点においてゑり子に対する優位性を確保していますが、ゑり子の合成人間であるがゆえの完璧な美しさは相対する人間にある種の劣等感を植えつけることでしょう。これでゑり子が高飛車であったり冷徹であったりと、内面に難があるならばまだ溜飲も下るというものでしょうが、彼女はその性格までも非の打ち所がなく、完璧なのです。そして人間並みの知能と常識まで有している。それは言い換えれば、人間の不完全さを完全に模倣している、ということになるでしょう。
要するにゑり子は完璧なまでに人間で、完璧なまでに人間ではないのです。
著者の倉橋由美子は『倉橋由美子全作品3』内の作品ノートにおいて、本作について次のように語っています。
「合成美女」のアイディアは、化粧をした女性の能面じみた顔から浮かんだ。女性に限らないが、人間の中には自分とは違った材料と違った原理とで合成されているのではないかと思われる人物がいる。ごく身近にもいるのである。(中略)それと同時に、自分自身も他人にはそのような合成人間風に見えているはずだと思い、横隔膜のあたりに冷たい水のような笑いがにじんでくるのを感じる
同じ人間をさして自分と違った材料と原理によって合成されたと表現するところに物書きとしての格の違いを思い知らされますが、この他人の見え方、他人からの見え方というのを人間と合成人間のあいだで巧妙に表現しているところに本作の魅力があります。
個人的に印象深いのが、倫子が同じく合成人間を所有している主婦の友人達と語らうシーンです。ゑり子と夫の関係を疑って嫉妬に駆られる倫子に対して、友人達はそんなことはどの家庭でもあると答え、合成人間をあてがっておけば男は浮気しなくなるからよいとまで言い放ちます。合成人間を人間と同じに見ている倫子に対して、友人たちは合成人間を人ではない、ペットかあるいはもののように見ています。これもまた、自分と他人とのあいだにある見え方、あるいは認識のずれが作品設定のなかに上手く落とし込まれているシーンだと感じます。
非日常的な感覚を日常に組み込む面白さもあれば、日常的な感覚を非日常に組み込む面白さもあるのがSFの醍醐味であると私は常々思っています。本作はきっと後者にあたるのでしょう。気になった方はぜひ手に取っていただけると幸いです。