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書けるときと、書けなくなるとき

文章を書いていない時期もあった。書いていない時期は、書きたいと思わない時期だった。書く必要性がない時期だった。書く必要のない時期は、つまり身の回りの環境が、変化している時期だった。言葉が好きな人間として、喜ばしいことでもあり、残念でもあるのだが、自分の言いたいことは、もう本当に100%すでに誰かが、自分より圧倒的に上手に言い終わっている。そいつを引用したほうが早いこともある。つまりは以下のようなことである。

「たぶん今、君は自分自身を新しいフィクションの枠組みのなかに置こうとしているんだ。だからそっちが忙しくて、君の気持ちを文章の形にする必要がないんだよ、きっと。あるいは余裕がないのか」
「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションのなかに置いている。もちろん僕だって同じだ。車のトランスミッション考えればいい。それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外からやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れやすく変換していく。そうすることによって傷つきやすい生身の身体をまもっている」
「いちばんの問題は、それがどういうフィクションなのかを君自身がまだ知らないことだ。筋書きもわからない、文体も定まっていない。わかっているのは主人公の名前だけ。にもかかわらず、それは君という人間を現実的に作り変えようとしている。もう少し時間がたてば、その新しいフィクションは君をまもるためにうまく働き始めるだろうし、君は新しい世界の姿を見るようになるかもしれない。でも今はまだそうじゃない。当然ながら、そこには危険がある」
「つまりわたしは、自前のトランスミッションは取り外したものの、それにかわる新しいものはまだネジをとめている途中。それでもエンジンはひゅんひゅんと回転を続けている。そういうこと?」
「おそらく」
(村上春樹 スプートニクの恋人)

こーゆうときに、本棚から目当ての村上春樹をだして、ぱッとページを探せるのは僕の数少ない、誰も褒めてくれない長所のひとつだ。環境の変化。「現実の荒々しい世界に折り合いをつけ」ている段階においては、自分の、世界を捉える枠組みができていないということだ。未知の荒野に放り出された状態で、文章は書けない。混沌を切り分け、解釈して、名前をつけて、分類していく過程のなかで、徐々に世界が言語化されていく。一通り、世界と自分の折り合いがついたところで、自分の言葉がだせるようになってくる。僕もそうであった。今の仕事になれ、失敗も成功もして、一段落したときに、noteを始めた。いったん、世界と折り合いがついたから。数年前、はてなブログをはじめたときも、同じような一段落の時期。はてなブログを辞めたときは、環境が大きく変化したときだった。僕は、新しいトランスミッション、世界と折り合いをつける装置づくりに忙しかったのだ。それが完成したから、こうしてnoteを書いている。装置が変わり、文体もちょっと変化している。昨日、感覚的に書いた、「このnoteが書けなくなるときは、僕の人生に進展があったとき」みたいなことも正にこれである。逆に言えば、書けているうちは、変化、進展がない、ということでもある。が、それはまあ、自分が苦労して作った装置で、世界と折り合いがついている状態でもあるのだ。人生において、あと何回、僕は文章が書けなくなるのか?そのくらいの環境変化が起きるのか?書けるうちに、書いておこうと考える日々である。今日は引用に文字を多く使ったが、1458文字

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