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20代前半で2回うつになったHSP気質の繊細さんが、ほんの少しだけ生きることに疲れたなと感じるあなたに伝えたいこと。

中学生にあがる前、ショッキングなニュースが耳に入ってきた。どうやら私の上がろうとしている中学校には、4つしか部活がないらしい。

王道の野球部。(これはまあ、分かる)
ヤンチャなバスケ部。(これもまあ、分かる)
安定の吹奏楽部。(まあ、そうなるよね)
異彩を放つコンピューター部。(……なんで?)

いま思えば、なにも無理に入る必要などないことくらい簡単に分かるのに、時代ならではの圧と若さとは恐ろしいもので、

「こんなかだったら憧れの先輩がいるから、バスケ部かな。仲良いともだち、みんなバスケ部入るって言ってるし」。

なんて具合に、いとも簡単にバスケ部に入部届を出したのである。
12歳のわたしは、実にあさはかである。

あの3年間は、今思い返しても辛かった記憶のほうが印象的なほどに「辞めたい」ばかり考えていた日々だった。

そもそも、チームで協力し合って誰かとなにかを成し遂げる、というのがあまり向いていなかったのだと思う。だけど、そこはやはり学生という立場上、チームワークや協調性、自分の役割を知る、などそういう部分を育むうえで我慢するべきなんだろうな、という気持ちだけで乗り切った気がする。

あとは、大人になってから、「え、部活何も入ってなかったの、へぇ〜」と、"訳ありな性格?"みたいな目線で見られるのがめんどくさいな、と想像していたこともある。
とにもかくにも、目先の面倒くささよりも、将来降りかかるであろう面倒くささのほうが、当時のわたしにとってはずっとやっかいだったのだと思う。


それにしても、バスケットボールというスポーツは、つくづくわたしと相性が悪かった。

まずジャブのように降りかかったのは、人間関係の悪さ。もちろん、中学生という多感な時期であるということを考えると、いろんなことがうまくいかない、すれちがう、そんなことはバスケでなくとも日常茶飯事なのだけれど。それでも、大人数の先輩方が仲悪く、日によって攻撃の対象が変わることに、毎日気を遣わなければいけないことに、日々苦痛ばかり感じていたように思う。

それに、体育館という空間が苦手だった。みんなで汗を流すという行為がまず好きじゃなかったのと、何時間も同じ空間に閉じ込められている感覚がするのがイヤだった。あとは平気な顔でつま先を踏まれるのも、自分がひとの前に割って入るのも、ものすごく辛かった(そのひとつひとつが競技の一部であるという前提を持ってしても苦手だった)。

わたしはやりたくないことに関しては一貫して自分を貫く、それこそ面倒な学生だったので、「糸野おぉぉ!!!ちゃんと8番付けよ!!」とコーチに声を荒げられても、あんまり耳に入ってきていなかったと思う。あのときの先生、ごめん。あんなに必死に毎日教えてくれたのに。わたし、本当に、バスケ、これっぽちも好きになれなかった。

こんなふうに不快に思うような記憶ばかりがずるずるとでてきてしまうことを、今、おとなになってから、すごくもったいなかったな、なんて思う時がある。

当時の自分に戻れたらおそらく無難に(?)コンピュータ部にしなよ、というかもしれないし、それこそいっそのこと違う中学校を目指そうよ、と背中を押すかもしれない。

だけどまあ、「はじめての」森絵都さんの作品のように、その選択があったから好きになったこと、出逢ったひと、そういうものは必ずあるわけなんだよな、とも思うのだ。(たとえそう思うのが、今の自分を守るためであったとしても、それで良いような気がしている)。

前置きが長くなってしまったけど、今日書きたかったのはこんなことじゃなくて、繊細さをもって生きる、ほんとに大変だよね、ということだ。

この記事を読んでくれているひとのなかには、自分自身のことを繊細だなあ、とおもうひとも、そうじゃないだろうなあ、とおもうひともいると思う。

今日はそのどちらのひとにも最後まで読んでいってもらえたら、すごく嬉しい。

まず、タイトルに"うつ"と"HSP"という単語をふたつ並べているけれど、このふたつは全く異なるものだということを述べておきたい。

HSPというのはハイリーセンシティブパーソンという言葉の略称であり、感受性の高い繊細な気質をもつひとに対して使われるようになった「特性」を表す言葉である。詳しく知りたいかたはHSP関連の書籍が本屋さんにたくさん並ぶようになったので、ぜひ紙のページをめくってチェックしてみてほしい。

一方でうつというのは、「精神疾患」として使用される言葉だ。混同しがちになるかもしれないけれど、ここに大きな違いがあることを頭の片隅におきながらエピソードを聞いてもらえたら、いろいろと参考にしてもらえるのかな、と思う。


極論、いまのわたしが果たしてどういう精神状態なのかということから伝えると、わたしは今、とても穏やかな気持ちで毎日を過ごしている。

自分のことを強く責めたり、自分のからだを傷つけたり、自分だけが悪いと思い込んだり、この世のなかに自分なんか必要ないと泣き喚いたり、そういうことを、驚くほどしなくなった。

そして、ありとあらゆる刺激に対して、苦手なものからは適度な距離を取れるようになって、たまにイヤなものはイヤだと口にするようになって、好きなものにはとことん夢中になるようになった。

いまでもたまにそういう日々があったことを思い出すけど、自分のネガティブの地の果てまで行ききった感覚と記憶があるからか、あの頃の自分とこれからを生きるわたしは全く別の人間なんだな、と思う瞬間がある。いや、ほんとうに。信じられないかもしれないけど、もうあの日々ほど自分のことを深く傷つけたり、自分の周りのひとをひどく傷つけたりすることはないだろうな、と直感している。

これは、こころの揺れ動きを言葉にすることを趣味とするわたしにとって悔しくてたまらないのだけれど、そう強く感じている、としかいえない。

だから、いま、苦しくてすがるような気持ちでここにたどりついたひとがもしもいたら、わたしみたいなやつ、すくなくとも同じ言語喋ってる日本にいるよ、って知ってほしいのだ。

自分を痛めつけたくなる気持ち、手を出したくなる気持ち、いなくなってしまいたい気持ち、その経過も形もおもさも、あなたとわたし、みんなひとりひとり絶対にかならず違うけど、それでも、ここに記した気持ちと少しでも似てる気持ちになったことあるな、って思ったら、その今のつらいきもちが、半分になればいいなと思ってるひとがいるよって。

半分なんておこがましいな、ほんのちょっとでも、こころがふわっと浮くような、そんな感覚を一瞬でも届けられたらいいな、って思ってるひとがいるよって。

わたしは自分が苦しかったとき、本当はだれかにずっと、そんなふうに言って欲しかったから。

世のなか、思ったよりみんなドライなんだなと知ったのは、社会人になってからだ。社会に出ると、自分が生きるのに精一杯で、ひとの気持ちより自分のことで、もうそれ以上のことは考えられません!そんなひとが多いように、わたしには見える。

それは、おそらく社会を生き抜く心構えのあり方のひとつなのだろうな、とわたしは解釈することにした。こんな言い方になってしまうのは、2度目に心を壊した原因が、まさに上に書いたことそのものだからだ。

追い打ちをかけた出来事がある。
うつで会社を休んで復職したあと、やはり会社の中の殺伐とした空気にたえられず泣き出してしまったとき、わたしにしては、わりと心を開いて理由を上司と先輩に話したことがあった。

「あまりにも悪口が多すぎます。なぜ憶測でひとのことを悪くいったり、噂をひろめたり、いじわるをしたり、するのでしょうか」。

思うままに打ち明けた私の言葉に対して、彼女たちはこう言った。

「そういうもんなんだよ」

笑いながら、呆れながら、そう答えた彼女たちの表情をみて、ああ、一ミリも伝わってないんだな、とわたしは思った。あの瞬間からこのひとたちに何かを打ち明けたりするのはむだなんだな、と。

じゃあこの胸の苦しさは、どうすればいいのか。
毎日感じる、ひとがひとにたいして投げかける悪意を持った言葉や態度を、聞こえないふりをしたり見えないふりをしたり、そういう風にしなければならないのか。

そこからもたくさん、泣いた。

泣いて、たくさん考えた。

それでも、ただ、思っていた。

ひとの気持ちに対して、ただ、まっすぐに向き合う強さのある、そんなおとなになりたい。

だれかがもし、わたしに悩みを打ち明けてくれたり、新人の子が学生と社会の違いを感じて息が苦しくなったとき、そういうもんなんだよ、のような言葉じゃなくて、くるしかったよね、と、わたしもそうだよ、今も、って、くるしさとの戦い方をわたしなりの言葉で伝えてあげられるようなひとになりたい。って。

これは、きっと、周りの環境すべてにおいて、とても敏感にいろんなものを感じとる繊細さをもっているから、できることだろうな、とHSPの良いところを知って、思った。


ひたすら自分自身と向き合った先に、ちゃんとわたしなりの光はあるんだな。うつになって、自暴自棄になって、カウンセリングを受けたりした日々は、遠回りしたように思えるけど、心地よく生きるためにわたしに必要だったのかもしれないな。

今は、こころのなかに穏やかな波を感じながら、そんなふうに思っている。


いま、
生きるのがちょっと疲れたな、とか
おとなになりたくないな、とか
おとなになるのが怖いな、とか
繊細すぎて生きづらいな、とか
毎日訳もなく辛くてどうしようもないな、とか

そんなふうに思ってるひとがいたら、聞いてほしい。

ものすごく悲しいことに思えるけど
あなたのつらいきもちを、100%理解して分かってくれるひとって、この世の中にはきっと、いない。

だけどね、ただ、話を聞くことしかできないけど、そのくるしさの一部でも分けてほしいって、そんなふうにおもうひとは、確実にいる。

まずは、ここに。

あと、生きているといろんな人に出会って、それだけいろんな考え方をする人に出会って、そのぶんいろんな言葉の使いかたをする人がいるから、その事実に嬉しくなったり、傷ついたりすることがあると思う。

だけど、あなたがすてきだな、心地いいな、と思うものにアンテナをはって、それらを摘み取って生きていく強さをもとうと決心できたら、それからの日々、ほんの少しだけ、顔を上げて生きていける気がする。

これが、20代の短いスパンで2回こころを壊してしまったわたしのいまの、あなたへのまっすぐな気持ち。

ただ、届けたい気持ち。



長い文章を読んで、今日、この記事にたどりついてよかったなって思えてもらえたら、それだけでもう十分です。ハッピーな気持ちをありがとう。

最後まで読んでくれて、本当にありがとう。

もし、この記事からわたしのことを知ってくれたひとがいたら、これからもわたしらしい感性とことばで物語を紡げたらいいなと思っているので、monogatary.comも覗いてみてほしい🌝


また、noteを通じてとどけたい気持ちがあふれたとき、戻ってきます…!

くるしさや生きづらさを抱えているひとのこころが、しなやかに軽やかに未来を跳ねていけるように願いを込めて。2023.1.14 Sat.