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SST(ソーシャルスキルトレーニング)について、個人的に思うこと。

注・かなり愚痴っぽくなってしまったので、人目につかないよう有料にしてます。尚、これを書いてる私は専門家でも、なんでもない自閉症の一般人です。

前にコミュニケーションの勉強をしようと言われて、本を読まされたことがある。いわゆるSST(ソーシャルスキルトレーニング)というやつなのだろうか、本にはイラストが挟んであって「こういう対応をしたらお友達は傷つくよ…だからやめようね」みたいな、良い対応、良くない対応、みたいに描かれていた。そのときは本を読むだけで時給が発生するなんてチョロいなと思って「ふんふん」言いながら読んでいたのだが、(不真面目ですみません)私は短期記憶が激強なので、夜になるともう何を教わったかけろりと忘れてしまった。母に本を読んだことを話したくて「なんか絵が描いてあったよ〜」くらいのことしか伝えれなかったのである。これがテストでなくて私は助かった。


さて、ここまで読んで何の話じゃ??と思われた方に説明すると、私は一端の自閉症当事者として疑問があるのである。それは、SSTで人の心がわかるようになるのか??という話である。もちろんそれは人によって違うだろう、コンブチャで快便になる人もいれば、私のようになにをやっても便秘の人もいる。おそらく私にコミュニケーションを教えようとした人間は教えようとするくらいなのだから、私とのコミュニケーションを不都合に感じていたに違いない。私は見落としていたかもしれないがもどかしさもさぞあったことだろう。それらの改善をはかるために私にコミュニケーションを教えようとしたとして、果たしてそれは改善したといえるのだろうか?という疑問が私にはある。例えば機械に「こういうシチュエーションのときはAという対応をしてね」ということを教えるとしよう。彼女は私に「機械のようにAの対応をすることを教えたかったのだろうか?」おそらくそれは違うだろう。もちろんその要素がないわけではないが、自分に、社会にとって都合のいいように対応してもらうことを教えたかったわけではなく、「心」というものを教えたかったのに違いないと思う。

非論理的に思われるかもしれないが、これには一つの経験が由来している。もちろん自閉症には心が存在しないなどとは私は言っていないし、これからもそうは思わないだろう。ただ彼女が求めていたような社交的な振る舞いが私には欠けていて、それをどうにかできると彼女は思った。ので、コミュニケーションの勉強をはじめるという行為に至ったと私は考えている。(もちろん面と向かって「私ってなにかおかしいですか?」と聞いたわけではないので、どう思っていたか保証できない、文字通りなにか見落としていた可能性もあるからだ)私が体験した経験というのは、とある人物に「私は不登校である」と話したときに、「あなたが悪いんじゃないけど、不登校だから学んでないことがいっぱいあるんじゃないかな」と言われたことだ。そのあと学校生活で身につくはずだった、社交的スキルをSSTで習得してみることを勧められた。私はこの発言を「学校に通ってたらもっとまともだったのに」と、解釈したので、当時とても驚いたのを覚えている。なぜなら私はながらく「学校が私に合っていないから不登校になった」と考えていたからである。これは「自分がフッたと思っていた相手の共通の友達に久しぶりにあったら、周囲の人間に私がフラレた側だと思われていた」という経験に近しい。見事に力関係が反転しているのだ。

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