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私を置き去りにしちゃうのは言葉だった


『素敵』という言葉を使わずに『素敵』を表現するのって、大変とっても難しい。


昨夜眠れなくなった私は、阿部広太郎さんの『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』を読了しました。 (写真テカテカしておりすみません。) 

そこで1番感銘を受けたのが、  

「素敵」 を禁止してみよう


というお話です。  

今までの私なら、人に優しくされると『ああ、”素敵”な人』と思ってしまっていました。直接「そういうところ”素敵”やわ!」と伝えていたりもしました。

美味しそうなものを目の前にしても、
「え…美味しそう”素敵”!!!」
綺麗な景色を見ても
「”素敵”な景色」……


素敵しかゆうてないやん!!
てか「素敵」が全てを「素敵」のままにしてしまってる!と強くショックを受けました。

また、阿部さんが『僕が「素敵禁止」にする理由。』という記事を書かれていて、その中に分かりやすい表現があったため引用させていただきます。


「素敵」という磁力のある言葉に、だんだん自分の気持ちが集約されていく感覚がある。


なるほど。確かに。
「素敵」という表現が、生き生き動き回る感情を一つにまとめてしまうような感覚。言われてみれば、そんな力が「素敵」にはある気がした。

阿部さんがおっしゃる通り、「素敵」がダメな言葉だというのではなくて、使いやすい言葉だからこそ、そこに頼りすぎないように”あえて”禁止する。
「素敵」の手前にある、私の感情により近いことば。それはなんなんだろう、もっと具体的に表現することができるはずだ!と思い、実践することに決めたんです。



それから、実際に文章を書きながら「素敵」「いいな」「エモい」「やばい」などの磁石系ことば(今考えた造語です)の根源を辿ることを癖づけています。

私は朝起きてすぐ、感じたことや思ったことを殴り書きしようと心掛けています。その殴り書きの一部を引用。

今日5時に起きた。真っ暗な外では雨が強めに降っている。ベランダにほり出してるゴミ袋に雨粒が落ちると、ボツボツとなるのがいいな



……「いいな」見事にでました!!
書き終わってひと息。疑問が浮かびます。

なんでボツボツなると「いいな」と感じるの?「いいな」の核は?
このなぜ?核は何?が大切なんだろうか、と実践を通して感じていました。

そこで私は「いいな」から線を引っ張ってきて、

「いいな」⇒ ゴミ袋の上に落ちる雨粒の音はボツボツと重めな感じ。反対にアスファルトに落ちる雨粒はポポポと高めで軽快な音がする。このランダムに交じり合う雨音が心地いい。

こう書きました。

これほど具体的なものを「いいな」でまとめていたことに驚愕(笑)そして、この感覚が「いいな」の終着点だったことに気づきました。
私は文章を書くのが上手いわけではないので、「いいな」以前にもっと具体化すべき個所を表現できてないませんでした。『アスファルトの軽快な音』とか、書き直す前には一切書いてなかったのに(笑)すみません。


今までの私なら、感動したことを「言葉」で可視化すると「いいな」で終わっていました。本当にもったいないことですよね。

100人が同じ景色を見て「素敵」と表現しても、どこをどう「素敵」と思ったのかは100人とも違う。その「ことば」にも差があるはずなのに、その差を塗り潰して表現できてしまう「素敵」は万能すぎる。
その使いやすさゆえに「素敵」を多用していたことに恥ずかしさを覚えた。1番に、人間それぞれの個性や感覚を集約してしまう恐ろしさにもぞっとした。  


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感動したことを「ことば」としてかみ砕き、表出する練習をする


これから絶対意識していく。よしゃ。

何より、かみ砕いて出てきたものには私らしさが詰まっているんだと思う。
だけど、この私らしさを「素敵」や「いいね」だけで伝えてしまうのはもったいない。そして悲しい。
せっかくの私が置き去りにされているみたいな感じがしてしまって。

伝えるなら、私らしさを添えて
私のままを伝えたいと思う。


この本を読了し、生きる上での目標がまた一つ増えました。


私は私を「ことば」でうまく伝えられる人になりたい。
また私が心で感じた温度や感触を、”そのまま”伝えられる人になりたい。  

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