『素敵』という言葉を使わずに『素敵』を表現するのって、大変とっても難しい。 昨夜眠れなくなった私は、阿部広太郎さんの『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』を読了しました。 (写真テカテカしておりすみません。) そこで1番感銘を受けたのが、 「素敵」 を禁止してみよう というお話です。 今までの私なら、人に優しくされると『ああ、”素敵”な人』と思ってしまっていました。直接「そういうところ”素敵”やわ!」と伝えていたりもしました。 美
明日はわたしの誕生日。 なぜだか財布の紐がゆるいし、ぼけっとしている。 一番に、身体も心もわくわくしている気がする。 誕生日なんて、わたし以外の人にとっては「何の変哲もない1日」だ。 でもそれは、わたしにとって「誰かの誕生日が何の代り映えもない1日」なのと同じや。 だからこそ自分が抱く「自分だけの日に対する期待」を裏切りたくなくて、 背伸びしてジュエリーブランドでリングを購入した。 もちろんパールがあしらわれたもの。 そこだけは譲れない。 「月の涙」と呼ばれるその
私は自分のことを比較的に大切にしている方だと思っている。 疲れてなって思ったら飛び切り一人を楽しむし。 ハーゲンダッツ買って、超高いのにウーバーイーツして、 ごろごろして、好きなだけ寝て、 あーなんて自分勝手なんだろうと思いながら、 「まあ、疲れてるし、いいんよ」 って言う、思う。 自己肯定感という言葉、最近トレンドだなあと感じる。ほんまにこのご時世、自分のことは自分で肯定しなきゃいけないんだなと。 だけどそう思ってるだけで、実際コンプレックスばかりだ、昔から。自己
確かに、「わたしはうまれた」を英訳すると「I was born」になる。 なぜ英語にすると受け身になるんだろう。生まれてきたのは私なのに。 今までそんなこと考えもしなかった。 * 堀静香さんのエッセイ。『せいいっぱいの悪口』。 そこには「はみ出しながら生きていく」というタイトルのエッセイが収録されている。 その中で引用されていた吉川弘さんの「I was born」という詩について、いろいろ考えこんでしまったわたし。 引用されていた個所がこちら。 僕は<生まれる
そのすべてが人間で、人間らしくて。 そして それが生きることであり、 死ぬことなのかも。 先日、堀静香さんの『せいいっぱいの悪口』を読了しました。 表現力の乏しさに私… はげそうになるのですが…泣けますが… どうしても何か言いたくて(笑) 頑張ってこの思い、伝えたいと思います!!解釈が合ってるのかも分からないですが。 以下は私の感じたことです。 筆者が過ごしてきた日々の中、そこに残る鮮烈な記憶を一緒に辿っていきながら「生きるとは」「死ぬとは」について考えさせられる、そん
横断歩道の信号がチカチカする。 『あ、急がな。』 時計を見た。少し遅れそう。急がないと。 すれ違う通行人からは灰色の雰囲気が出ていた。 みんな薄暗い、何かに疲れているような。 毎年クリスマスにだけ恋人と来るケーキ屋さんのガラスに映る自分。 なんだか老けた感じするな。 大人っぽくなってるだけかな。 歩く。 目の前には手を繋いで歩く父親と子どもがいる。 おぼつかない足取りで歩く小さな子ども。 かわいいな。 パパと歩いていて楽しそう。なんかでも、転びそうだな。…おっと!
「まいはなんにもできんでいいねん、人を悪い気にさせることないし、人を幸せにできるんやから」 父がよく私にいう言葉。 昨日布団に入ってたら蘇ってきて、笑ってもた! おいおい、なんもできんで良いことはないやん?!極端やろ!とは思ったけどよ、まあ確かに結構色々欠落してるんは承知の上や。 アル中カラカラな父ちゃんは、いつも私達子どもに95%甘めな愛情を注いでくれてた。 人間性はもちろん、犬の糞踏んでも褒めてくれるし「まいはすごいな〜やっぱちゃうな!」っていつも言う。 私の