萩城下町と幕末の志士
前回、吉川家を領主とする岩国藩と錦帯橋がテーマでしたが、今回は、その吉川家を家臣とした毛利家の再出発の拠点となった萩城と城下町、そして、その後に萩で生まれ育った幕末の志士についてお話したいと思います。
毛利家の新たな出発
16世紀後半、広島を居城として中国地方など8か国112万石を誇っていた毛利氏は、1600年の関ヶ原の戦いで敗れると、長門・周防2か国30万石に減封されました。
そのとき、広島に代わる新たな居城として山口、防府、萩が候補に上がりました。
時の領主・毛利輝元(もうりてるもと)は、最終的に防御に適した要害の地である萩(注1) を拠点とすることにしました。
徳川幕府にしてみれば、外様大名となった毛利氏を地理的に遠ざける思惑があったようですが、輝元は、萩は城を守るにはうってつけの場所と認識したようです。
(注1) 萩の指月山(しづきやま)には、毛利氏の家臣として、津和野を本拠としていた吉見氏の居館が築かれていた
要害の地、萩
実際に、萩は下の写真のように、萩の手前で阿武川が二つに分かれ、松本川と橋本川が城下町を取り囲むように日本海に注ぐデルタ地帯となっており、その一番奥に海に囲まれた萩城(注2) があります。
(注2) 当時、萩城は完全な陸続きではなく、途中に湿地帯があり、満潮時は徒歩で渡れないこともあったという
輝元は、指月山の麓に平城を構え、更に山頂にも山城を築きました。
加えて、海側にも石垣を積むという徹底ぶりです。再び戦乱の世が訪れた時、何としてもこの地を守り抜こうという強い意気込みが感じられます。
2006年、日本100名城に選ばれました。
萩城下町
1604年に築城が始まった萩城は、1608年に完成しました。以来、約250年にわたり毛利氏による長州統治の拠点(注3) となりました。
これに伴い、萩城下町も発展・繁栄を遂げてきました。
江戸時代の町割りが残る萩城下町には、細工町や樽屋町など、いかにも城下町らしい地名が残っているほか、建物も江戸~明治期のものが多数現存しています。
(注3) 1863年、情勢の変化に応じて毛利敬親が藩庁を山口に移し、萩は藩庁としての役目を終えた(その後、1871年に廃城)
堀内(ほりうち)、平安古(ひやこ)、浜崎(はまさき)、佐々並市(ささなみいち)の4地区は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
2015年に世界遺産に登録された明治日本の産業革命遺産のうち、萩城下町、松下村塾(後述)、萩反射炉(後述)など5つは萩に所在しています。
戦(いくさ)への備えは城下町でもみられ、所々に鍵曲(かいまがり)(注4) が設けられています。また、土塀を強化するためミルフィーユ状に瓦を積み重ねた瓦塀も見応えがあります。
(注4) 左右を高塀で囲んで道を鍵状に曲げた道のことで、城下に侵入した敵を迷わせ、家臣たちの屋敷を守るために造られた(道幅はかなり狭く、車1台通るのがやっとです…💧)
萩藩校・明倫館
このように、毛利氏の戦への備えは徹底していましたが、他方では、代々、学問を重んじる気風もありました。
1719年、毛利吉元(もうりよしもと)が子弟教育のために藩校・明倫館(めいりんかん)を開き、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌とともに日本三大学府と称されたそうです。
その後、1849年に毛利敬親(もうりたかちか)が校舎を現在地に拡大移転します。広大な敷地内に複数の学舎や武道場などを備え、多くの志士(注5) を輩出しました。
(注5) 吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、乃木希典、伊藤博文※、井上馨※など(※:長州ファイブ)
吉田松陰
吉田松陰は、1830年に長州藩の下級武士の家に生まれ、幼少期から兵学を学びました。
僅か9歳で明倫館の教師見習いを務め、15歳の頃、アヘン戦争で清がイギリスに負けたことを機に、日本の将来への危機感を募らせていきます。
青年期には長崎や東北などを回り、長崎では停泊中のオランダ船に乗り込み、西洋文明の質の高さを思い知ったそうです。
そして1853年、ペリーが浦賀に来航すると、師・佐久間象山と黒船を観察し、浦賀の徳田屋で海防策などを話し合いました。
翌年、ペリーが再航した際には、小舟でポーハタン号に近づき乗船を試みましたが失敗し、投獄されてしまいます。
転んでもタダでは起きない松蔭は、投獄中も多くの書物を読み漁り、牢獄から解かれると、1857年に松下村塾(しょうかそんじゅく)を開塾。
この私塾で、高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞など約80人(桂小五郎や山県有朋は入塾せず)の門弟を集めて兵学、孟子、地理、歴史から、武士の心得や倫理に至るまで幅広く教育し、世界に通用する人材を育てました。
1858年、幕府が日米修好通商条約を締結したことに憤慨した松陰は、次第に倒幕への動きを強めていきます。
結果、幕府から危険視され、1859年の安政の大獄(注6) により江戸で処刑されました。享年29歳という若さでした。
(注6) 大老・井伊直弼が、幕府の政治に批判的だった尊王攘夷や一橋派の大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧した事案のこと
高杉晋作
ザンギリ頭で知られる高杉晋作は、代々、毛利氏に仕えてきた家柄の出身でした。
1862年に藩命で上海に渡航したとき、清が欧米の植民地となっている実情を目の当たりにし、帰国後は桂小五郎らとともに尊攘運動に加わります。
また、身分を問わない奇兵隊を結成して、長州藩を倒幕に導く原動力となりました。
肺結核を患い29歳の若さで死去。墓所は山口県下関市の東行庵(とうぎょうあん)にあります。
おもしろきこともなき世をおもしろく
住みなすものは心なりけり
晋作らしい辞世の句で、「面白くない世の中を面白いと感じるかどうかは、己の心持ち次第である」ということを表しています。
高杉晋作の生家には、晋作が上海で購入し、その後、坂本龍馬に贈ったピストルの模型が展示されています(上の写真、右下)。
木戸孝允(桂小五郎)
1833年、長州藩の藩医の長男として生まれた桂小五郎は、16歳で吉田松陰の門弟となり、19歳で上京して剣術や兵学、造船術、蘭学などを学びました。
1853年、江戸留学中にペリーの率いる黒船を見た衝撃から、海防の重要性を認識し、藩に軍艦建造の意見書を提出。
安政の大獄以降、諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、藩内の尊王攘夷派の指導者となりました(1859年、吉田松陰が処刑されると、伊藤博文らと遺体をひきとり埋葬した)。
1865年に木戸孝允に改名。翌1866年、坂本龍馬仲介の下で西郷隆盛と薩長同盟を締結しました。
明治新政府が発足すると、要職を歴任。五箇条の御誓文の起草や廃藩置県などに携わり、中央集権国家の樹立に貢献。1871年から岩倉使節団の副使として欧米を視察しました。
西南戦争中の1877年、出張中の京都において病死。享年45歳でした。
伊藤博文
初代内閣総理大臣となった伊藤博文も、17歳で松下村塾に入塾しました。
博文は松陰から、「なかなか周旋家になりそうな」(事を為すために立ち回る人物)と評されていたようです。
☟ 伊藤博文の詳細はコチラから
2つの戦争
特に、攘夷思想が色濃かった長州藩は、1863年と1864年に米英仏蘭の列強4か国を相手に戦いました(下関戦争と馬関戦争)。
その後は、先ず幕府を倒さなければ攘夷は達成できないと考えるようになり、次第に倒幕へと力を入れるようになっていきました。
しかし、今でいう山口1県だけで列強4か国を敵に回して喧嘩するとは、時の山口県民、根性あり過ぎですね…😅
萩のグルメ
さて、萩では日本海の海の幸と、夏みかんが特産品となっています。いずれも他に引けを取らない美味しいものばかりです。
【参考】 毛利家の墓所(山口市)
山口市の瑠璃光寺にある香山墓所には毛利敬親などの墓があり、毛利家墓所の一部として国の史跡に指定されています。
萩が育んだものとは
長州藩は、明治維新に向かう大きな原動力となりました。現在もなお、山口県は初代総理大臣の伊藤博文から安倍晋三に至るまで、全国最多となる8人の宰相を輩出しています。
背景には、当時の最高学府と謳われた明倫館や、多くの志士を育てた松下村塾の存在がありそうです。
加えて、外様大名として萩から再出発した毛利氏が、いつの日か再び戦乱の世が訪れると考え、片時も藩の防備と兵学の教えを怠らなかった。
このことが、志の高い人を生み易い土壌を育んだと言えるのではないでしょうか。
おわりに 〜 萩を訪れて思うこと
吉田松陰は、こう説いています。「志を立てて、以て万事の源と為す」(全ての学びや行いは、何よりも先ず志を立てることから始まる)と。
また、「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」(精いっぱいの誠意で相手に接すれば、それで心を動かされない人はいない)とも言っています。
情報過多で、真理が見えにくい時代にあっては、学校・組織・企業などの指導者や教育者は、「至誠」を尽くして学び手を啓蒙し、その「立志」を促すことが、これまで以上に重要なのかもしれません。
特に、国際情勢が風雲急を告げる今、先陣に立つリーダーには、どんな時にも国の守りを怠らなかった毛利氏や、内憂外患の心で国の行く末を案じた志士のようにあって欲しい。
そして、私自身も肩書・地位・経験などの上に胡坐をかくことなく、損得を判断の拠り所とせず、これからも謙虚に「学びの道」を歩み続けようと、あらためてそう思いました。
大事なことを任された者は、
才能を頼みとするようでは駄目である。
知識を頼みとするようでも駄目である。
必ず志を立てて、
やる気を出し努力することによって
上手くいくのである。
~ 吉田松陰 ~