ASD+α ADHDの私が、外国人との付き合いのほうが楽だったワケ。外資系企業という選択と、外国人の友人が多かった理由
自己紹介③で触れた、英語でのコミュニケーションが楽だったのには、まさかの理由があった。件について深堀してみようと思います。
はじめに
そこのあなた、もしかして同じことを感じたことがおありですか?
「外国人のといるほうが気が楽」
「日本人といると息が詰まる」
「理由はわからないけれど、なんだか日本という国で暮らしていること自体が息苦しい」
わたしは、ずっとそうでした。外国人といるほうが楽、というのは、
大人になって日本以外の環境を知ってからのことなのでこの10年程度ですが、
『息苦しさ』はそれこそ、
もう、ずっと何年も、何十年も。
物心ついた時、それこそ小学校2年生くらいのころからでしょうか。
「じぶんは、なんだか、クラスのみんなとちがうのかな」
「理由がわからないけど、なんだかすごく苦しい」
「自分の居場所は、ここにはない気がする」
「学校にいるだけで、大勢の人といるだけで、とにかく辛い」
理由は当時はわからず、小学生の頃は絵が好きだったので、時間があれば食事もとらずに、ずっと絵を描いて過ごしました。本も何百冊と、読みました。ひとりが好き、と意識していたわけではないし、友達とも仲良くしたかった気持ちはありましたが、なんとなく、自分の感覚ではいつも孤独でした。
小学校低学年ではソフトボール、高学年ではハンドボールもやっていましたが、とにかくとても苦痛でした。すごく苦痛なのに、いやなことでも我慢してやらなければならない、と脅迫的に考えてもいました。
なぜ、日本にいることが息苦しいと感じるのか?
『単に英語で日本語が教えられるだけではダメだ。日本語の深い知識を持ち、教えることに特化したスキルを身に着けたい』ということで、
スキル認定されたプロの日本語教師になるべく、日本語教師養成講座で勉強中の私です。
日本語教師の勉強の中で、思わぬ形で子供のころから感じてきた「生きづらさ」と、その理由を発見します。
『高コンテクスト文化』『低コンテクスト文化』という、
日本語と外国語の言語の特徴の違い
について勉強したある日のことです。e-learningの映像授業を見ていたところ、それは起きました。
みなさんの、既存のイメージ、 こんなのはありませんか?
日本は、空気を読む文化。
外国は、物事をはっきり言う文化。
そのイメージは、間違いではありません。
言語学の観点でいうと、
この文化の違いを、「高コンテクスト文化」「低コンテクスト文化」
という言葉で説明されています。
「空気を読む責任がある日本、自分の責任においてすべてを言葉で伝えるドイツ」
アメリカの文化人類学者であるエドワード. ホールによる説明を下記に整理します。
「高コンテクスト文化とは「空気を読む文化」と言い換えることができる。前提となるお互いの文脈(言語や価値観、考え方など)が非常に近い状態のこと。コミュニケーションの際に互いに相手の意図を察し合うことで、「以心伝心」でなんとなく通じてしまう環境や状況のことだ。このような文化では、伝える努力やスキルがなくても、お互いに相手の意図を察しあうことで、なんとなく通じてしまう。
一方、低コンテクスト文化とは、「言葉で伝え合う文化」と言い換えることができる。前提となる文脈や共通の価値観が少ない状態のこと。コミュニケーションの際に、言語で表現された内容が高い価値を持ち、思考力や表現力、論理的な説明能力やディベート力といった能力が重視される。」
ということで、日本は、典型的な「高コンテクスト文化」であり、欧米は「低コンテクスト文化」であるといわれています。
※私の親友は、ドイツ人です。
さて、ここまで読んでいただいた方はお気づきかと思いますが、
私の結論はこうです。
空気を読むことを当たり前だと強制される国だから、わたしは苦しかった。
わたしがASDの診断を受けたのは、この授業を受けたちょうどすぐ後でした。
ちなみにですが、ASDといっても、全く空気が読めないで、何も考えずに何かを発言するというわけではありません。
そういったイメージがあるかもしれませんが、私の場合は、2つの大きなポイントがあって、場によってはかなりいるのが辛い状態になります。
①失敗してはいけないという不安と②正解探しに疲弊
①不安がとにかく強い。
失敗するのが非常に怖いというASDの特性のせいか、空気が読めていないせいでか、周囲がみんな笑っているのに、まったく相手の話の面白さがわからずに、混乱に陥ります。
混乱しながら、自己嫌悪の感情がこみあげてきて、「みんなは楽しそうなのに、じぶんは普通に楽しむことができない。どういう反応をしたらいいのかわからないけれど、この場の空気を壊すようなことはできないので、とにかく笑顔を作ってみんなに気を遣わせないようにしなければ」と思考しています。
笑顔を保つことに神経を集中させ、「傾聴」「正しい共感の仕方」「敵意がないことを伝える体の向け方」すべての知識を駆使して、『雰囲気を壊さないようにその場にいる』というタスクを全力で全うさせようとします。
笑っているのに、悪口をいう、言葉の裏に、悪意があるということを幾度となく経験しているために、相手の言葉の裏にどんな意図がある可能性を念頭に、すべては表面上のものであるという恐怖が襲ってきます。
常に、言葉ではこう言っているが、このひとは絶対に私のことをよく思ってはいないはずだ、と、嫌われていると思い込んでいます。
一方で、相手の意図を聞き取る、正しく理解することに必死なので、相手の冗談を真に受けて、「きちんと」返事しなければと思ってしまい、冗談にまじめに答えてしまいます。
そんなときに、冗談だったのに、などと言われると、間違えたことを言ってしまったようで傷ついてしまいます。
②正解がわからない。(正解なんてものはないのに)
言葉や態度に正解があると思い込んでいて、その正解が何だかを探すことに必死になってしまい、疲れます。
不確実性があるということを嫌うASDは、物事を白か黒かではっきりとさせたがる傾向がありますが、
本来コミュニケーションや会話などにはもともと正解など存在しませんね。
しかし、
「相手がこういったら、感じよく笑顔で返答すべきである」
「相手が冗談を言ったら、笑うことによって、相手が気持ち良くなるようリアクションせねばならない」
私は、いつもこうした強迫観念と白黒思考に襲われます。
①の不安と共に、一つのミッションのように、「正しい反応」を返そうと一生懸命になります。
不安と正解探し、これは信頼できる相手、心内が知れている相手であればこのようなことは起こらず、自然にふるまうことができます。
ですが、日本人相手のとき、自然と体はこのモードになります。
なんだか、言葉面にすると、かなり神経質に感じられますよね。
きっと、空気が読める定型発達のひとは、
わたしが笑顔の仮面で必死に場の空気を乱さないようにふるまっていても、そういった私の緊張も読んでいると思うので、
なんとなく
「この人なんだか壁があるな」と思われてしまったり、「緊張していて、楽しそうじゃないな」と思われてしまっているかもしれません。
わかってくれたらいいな、とは言いませんが、
ASDだからと言って、何も考えずに空気を読まない発言をするのだと、安易に思わないでいてくれたら嬉しいなと思います。
人一倍、「相手が傷つかないように」「不快にさせないように」という点で、ずっと神経をすり減らしているので、どちらかというと、相手のことをずっと考えがちなのです。
相手のひとこと一言に、真剣で、一生懸命、
「理解したい」という思いでいるということだけは、
少しでも伝わってくれたらいいな、と思います。
長くなったので、続きはまた次回。
外国人との付き合いが楽な理由、ここまで来ると予測できると思いますが、
じゃあいったいどんなところが違うのか、
どうしてそんなに自然でいられるのか、
当事者の胸の内と、心理士としての心理学的視点を交えて深堀りしてみようと思います。
ASDとADHDのセルフチェックのリンク付き記事は下記よりどうぞ
↓↓↓
自己紹介まとめ