第三章 「兼業フリーランサー」の苦闘(2)
本を出したい!
話は少し遡りますが、私が映画関係やライターの仕事を本格的に始めた頃、前述のように物書きとしての基礎的な勉強をまったくやっていないことに不安を覚え、「日本語文章能力検定」というものを受けることにしました。漢字検定と同じところが主催していたもので、日本語教師になるための「日本語検定」とは別物。手紙文、文章の要約、小論文などが出題されるものでした。4級から地道に合格していきましたが、準2級の壁がなかなか越えられず、何度かチャレンジした時に、検定自体が休止になってしまいました。1級まで行きたかったのですが、手紙文など仕事の役に立った部分もあったので、無駄にはならなかったと思います。
同じ頃、梶尾先生を介して、東京在住のライターのK氏(たぶん、お名前を出してもいいんでしょうが、念のためイニシャルで)と知り合いになりました。年齢は私より少し下ですが、いろいろな経験をしてこられて、ライターとしても立派な先輩。いろいろな助言を頂いているうちに、東京のお仕事もいくつか紹介していただくようになりました。K氏もまた、現在までお世話になっている大恩人です。私が2回目の辞職をした数ヶ月後に発生した東日本大震災の際、ある書籍のライターさんたちが被災したためピンチヒッターのお仕事を回してくれたこともありました。
そのK氏に、ある時たまたま『土曜招待席』の話をしたら、ローカルテレビでの映画放送について本を書いてみたら?という提案をしてくださいました。目からウロコでした。今の自分の原点の一部でもある『土曜招待席』を掘り下げ、かつ拡げて書籍としてまとめる。これは書けるかも知れない!何より、テレビでの仕事を下さったのもRKK。何か不思議な縁を感じた私は、早速準備を始めました。
RKKに、ローカルでの映画放送の事情に詳しい肩がいらっしゃるということで紹介していただき、いろいろお話を伺いました。その時に、局内に保管されておいた同番組での放送作品のリストのコピーをくださったのです。ただ、それは一時期の分だけだったので、私は意を決して熊本県立図書館に通い、過去の新聞のマイクロフィルムでテレビ欄をチェックして、自分で放映作品リストの完全版を作ろうと決心しました。全貌を掴まないと掘り下げることはできません。結局、作業は手間がかかるし毎回あまり時間が取れなかったこともあり、すべての作業が終わるまで10年近くかかってしまいました。その結果、『土曜招待席』はその前身となった番組や後継番組まで含めると、何と25年以上続いていたことが分かりました。
…という話は、別にここでしなくてもいいのでこの辺で止めますが、要は「県立図書館に通った」というところが、その後の私に大きな影響を与えたのです。
二度目の退職の後すばらくして、県立図書館の蔵書にICタグを貼り付けるという仕事に就きました。初めから3ヶ月間と決まっていたのでまさしく急場しのぎの仕事でしたが、気は楽でした。ハローワークの求人では“軽作業”となっていたため主婦の方が圧倒的に多かったのですが、棚から本を片っ端から出してタグを貼り、また戻していくという作業は、男の私にも結構な重労働でした。軽い本もあれば百科事典のように重いものもあります。閲覧室にあるものだけでなく、何フロア分もある書庫からカートに載せられるだけ載せてエレベーターで作業場まで持ってきて、終わったらまた戻しに行く。結構、腰に来ます。そのせいで、途中で辞めていった女性も少なくありませんでした。全部で30人ぐらいが働いていましたが、私を入れて3人だけだった男性陣は力仕事を率先して行ないました。しかも、書庫の本にはホコリなどもたくさん着いていたので、マスクは必需品でした。
手紙の仕事に就く前に『土曜招待席』のリスト作りは終わっていたので、県立図書館へ行くのも久しぶりでした。そのことに加えて、さまざまな本に触れていくうちに、何としても本を出したいという強い思いが再び甦ってきました。特に、著者からの寄贈本が結構多かったことが、私の中のスイッチをONにしました。この仕事が折り返し地点に差しかかろうとしていた頃、前の仕事で時間も気力もなくなっていたため途中で止まっていた『土曜招待席』についての原稿を再び書き始めて一気に仕上げ、K氏に送って出版社への売り込みをお願いしました。そして出版に漕ぎつけた暁には、この図書館に寄贈したい。それがモチベーションになったのです。しかし、何せ物書きとしての腕はまだまだ未熟だったので、ローカルでマニアックな題材を世間一般にアピールできるように書く腕もなかったのでしょう。何度か話は進んだらしいのですが、なかなか実現しませんでした。しかも数年後になって、実は調査していない期間が大量にあったことが分かり、結局リスト作りを再開し原稿も全面的に書き直さなければいけなくなりました。だから、出版社に拾ってもらえなかったのは結果的にはよかったのですが…。
でも、この時の夢は、意外に早く実現することになります。そのことはまた後で。
再び状況が変化
図書館の仕事が終わった頃、東京のある方から書き物系の大量のお仕事を頂きました。詳しくは書きませんが、大雑把に言うとアダルト系のお仕事です(男優とかじゃないです)。家にこもって出来る仕事でしたが、いくらエロオヤジの私でもさすがにシンドくなるような内容と量でした。そのうち、娘が小学校を卒業して春休みに入り、一日中家にいることになりました。さすがに娘のいるところではできないということで、まだ途中でしたがリタイアしました。それでも結構な金額を頂けましたが、娘が中学校に入る時に必要な諸費用に全部消えました(笑)。
そして同じ頃、私もようやく次の仕事に就くことができました。物流関係の仕事で、書類の整理やデータの入力、商品倉庫での出入庫、不要になった段ボールの処理など、いろいろな作業を担当しました。その頃には眼の持病がさらに進行していたので、それでもできる範囲の仕事という条件でした。私にとって幸運だったのは、前の手紙の仕事のように、文章関係で頭を使うことがほとんどなかったので疲弊しなかったことと、休みが取りやすかったので映画関係の仕事との両立がしやすかったこと(もちろん、こちらを優先させていました)、そして事務や配達の部署に美人が多かったこと(笑)。そのおかげで、現在のところ、実家以外では最も長く勤めることになりました。
新しい職場は、バスで通うにはちょっと不便なところにありました。バス停はほぼ目の前と言っていいぐらい近いところでしたが、その路線の便数がやたら少ない。私の始業時間の30分以上前に着く便の後は、始業5分前。バスなので遅れるのは当たり前。しかも、我が家の近くから乗り継ぎ地点までのバスが遅れたら、もうそこから30分以上かけて歩いて行くしかありません。結局、遅れないように行くには始業2時間前に家を出ないといけませんでした。当然、乗り継ぎのバス停で20分以上待たなければいけないこともしょっちゅうでした。ああ、この時間があれば家で書き物の仕事が少しでもできるのに…という思いは勤め始めた頃からありましたが、こればかりは仕方がありませんでした。
翌2013年、公私ともに大激動の年になりました。夏になって、我が家がシロアリに侵略されていることが判明。詳しい調査の結果、土台の部分までかなり被害を受けていて、補修するには土台から行なわなければならない、とのこと。しかし、大家さんにはとてもそれだけの負担ができないとのことで、私たちが引っ越すことになりました。
2ヶ月で何とか移ってしまわなければならないということになり、あちこちの不動産屋をまわってようやく引っ越し先を決めた頃、K氏からお仕事の依頼が来ました。宝島社から発売される日本特撮のムック本で、伊福部昭について書いて欲しいとのことでした。かなり個人的な思い入れが入ってしまうかも知れないけど、それなら引っ越しの準備をしながらでも書けそうだ、ということで引き受けました。ところが、日を追うごとに他の部分の執筆も頼まれ、最終的にはかなりの分量を書くことになりました。それでも、得意分野だったおかげで知識もモチベーションもあり、昼間は出勤、早朝と帰宅後は引っ越しの荷造りと原稿執筆を並行して行なうという日々も何とか切り抜けることができました。
新居に移って特撮本の作業を何とか終わらせると、再びK氏から、今度は河出書房新社のタモリについての本の依頼が。タモリが通った小中高、そしてデビュー前に働いていた場所を探訪するコーナー。他の執筆者の皆さんは東京在住なので、同じ九州(しかも隣県)で取材に行きやすい私にお声がかかったというわけです。断る理由はありません。すぐにタモリの出身校や働いていた場所を調べ上げ、西鉄大牟田線の数駅の間の沿線に集中していることを突き止めました。しかもその一部は、日本語文章能力検定の受検会場だった短大の目と鼻の先だったので、わずかながら土地勘もありました。計画をしっかり立てて効率よく回り、4時間ほどで取材を終わらせました(この時の計画の立て方が、現在に至るまで上京などの遠征時に大いに役立つことになります)。とは言え、紀行文も未体験。腹を括ってあまり気負わずに書いたら意外に上手くいき、河出のA氏からもお褒めいただきました。これがまた、数ヶ月後に意外な展開へとつながります。
その月の後半と翌月、私は眼の持病が原因で発生し長年苦しんでいた白内障の手術を受けました。それまでは年じゅう霧の中にいるような感じだったのが、霧が晴れてすべて鮮明に見えるようになりました(白内障でも映画館のスクリーンはきちんと見えていたのは幸いでした)。これで、日常生活を送る上での不便さはかなり解消されました(ただし、基の病気が治ったわけではないので、完全に支障がなくなったわけではありません)。
そんな状態で迎えた翌2014年は、さらに大変なことになりました。
(つづく)
<これまでのお話>
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