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【哲学読書会レポ】西田幾多郎「善の研究」 - 善とは何か?

❤️今回の哲学読書会は、西田幾多郎さんの「善の研究」。私にはハードルが高いのですが、何かその魅力に取りつかれ、自分は「純粋経験」をしたことがあると勝手に思い込み、涙さえ流したこともありました。それほど、以前ゾッコンラブだった西田幾多郎さんですが、今回でお別れをするようなつもりで参加しました(笑)。しかし今回参加して皆さんと対話をして後で読み返してみると、また西田さんに惚れ直した感じです(爆笑)。やはり古典の読書は、1人で読むよりも、しっかりと対話の中で読んだ方が全然素晴らしいと再認識した次第です。

❤️確かに哲学的、原理的に言ったら、「純粋経験」や「善」の概念は確かめられないし、ファンタジーであるとも言えるわけですが、世界観は共鳴できるし、していいんだと思いました。そして西田幾多郎の哲学の中には私たちに感動をもたらすような力強い言葉も含まれていることを知り、ますます今後も学んでみたいと思った次第です。


❤️この読書会に参加する前は、西田幾多郎の善とか善行についてよくわからず考えれば考えるほどわからなくなってきたので、何か思考が宇宙に飛んでしまったような感じになりました(解脱?笑)。



❤とにかく「私」と言うものをとことん押し殺して、宇宙の意思に自分を同一化しなければいけない、自由意志を否定しなければいけないみたいな感じで捉えていたのです。何かそこに全体主義に飲み込まれそうな危険性を感じてちょっとお別れしたほうがいいのかなと思ったりしたのです。

❤️また読書会に参加する前には、善行と言うのは別に思考を使わない主客未分の純粋意識の状態でなくてもできるんじゃないかと思いました。つまり、対話に対話を重ねて共通了解というか合意点を見つけ出す営みと言うのは、思いっきり思考や自由意志を使うことであり、これによってみんなで何が善いかを見出していく事は否定できないのではないかと思いました。


❤️しかし、今回哲学者、教育学者である苫野一徳さんやその他の方にも指摘されて、後で読み返して、ようやく気がついたのですが、西田さんは自由意志を否定するどころか、むしろ積極的に自由意志を肯定していたのでした。私の理解では、西田さんは、人間は知識を知れば知るほど、物事の本質(理由?)を知れば知るほど自由になれると言うような記述があり、決して自由意志を否定していないこと、むしろ学習を重ね、経験を重ねていくことによって、より深い本当の自分の中から必然的にわき起こってくる自由を体験できるんだなぁと言うふうに理解しました。まだまだ私はそのような自然に湧き上がってくるような自由を自動的に行使することはできませんが、10代や20代の頃に比べたら、多少は人間や社会について基本的なところが見えかかっている確信があるので、多少抑圧的な状況であっても、全く飲み込まれてしまうのではなく、そんな状況であっても、ある種の自由を見つけられるではないかと思ったりもしています。しかしもちろん本文にも書かれてあったように、毒を飲んで死んだソクラテスの方が毒を飲ませた人間よりも自由だったと言う境地にはなかなかたどり着けませんが(笑)。

❤️今回西田幾多郎の善行の概念を理解するために、バスの中でお年寄りに席を譲る小学生の具体例を挙げさせていただきました。しかし、一般的に善の行いと言われているようなこの行為であっても、それが必ずしも善行であるかどうかは決めつけられないと言うことも学びました。つまり、その小学生の行為が先生や親に言われていたことなので、仕方なくそれに従ったかもしれませんし、あるいは周囲の視線を感じて、プレッシャーを感じて仕方なくやったかもしれませんので。要はその子がどのような欲望関心を内に持っていたかが重要であると。

❤️やはり苫野さんがヘーゲルを引用されたように、究極は絶対的な善と言うものは存在せず、相互に承認し合うことによってのみ善を他者と共有できるんだなぁと思いました。かりに絶対的な善、完全なる善があるとした場合、主観のOSの外に出られない人間は、何をもって善であるのかをめぐって、信念対立が起きてしまうことは必然なのです。だから、対話によって合意できるところのみで、私たちは善を語ることができるということを学びました。

❤️しかしそうは言っても、人間は様々な不安を抱えていると、超越したもの、超越的な善を求めてしまうような性質もあるようで(宗教、恋愛、革命など)、現代社会で見られるような推しの現象などは、超越したものを求める、言ってみれば、プチ超越の現象なのかもしれないと言うことも学びました。

❤️また、参加者の発言にもありましたが、歳を重ねてくると、理性的な事ばかりをやっているわけではなくて、ある時期が来ると、お墓参りに行かなければいけないなぁと言うような、ちょっとした超越的なものを求める性質が現れてくることも否定できないなぁと思いました。私自身、長い間海外にいても、やはりお墓参りに行かなきゃなぁと思ったりする次第です。

❤️最後にちょっと整理したいのですが、西田さんの言う善行と言うのは決して衝動的に行うものではないと言う事ですよね。つまり、思考が発生する前の段階、主客未分の段階の純粋経験の中で善行をするとは言っても、自動的に体が動いてしまうことが全て善の行いと言えないことを確認したいと思います。例えば考えずに体が動いて相手を殴って、それが「正義の鉄拳」だと言うような事はこれは善行ではないと言う事。

❤️さらには先ほど例に挙げたバスの中で席を譲る行為も、それが仮にその小学生の欲望関心が、ほんとに心の底から助けたいと言う善の気持ちだったとしても、それは西田に言わせれば、まだ発展途上の善の行いであり、究極は西田は多年の訓練や修練を積み重ねていて、自然と体が動いてしまうような次元で最高の完全な善行を捉えていたと言うことを確認したいと思います。それぞれの段階を確かめる事は確かにできませんが、そうした世界観には共鳴いたします。

❤️もちろん、今回指摘があったように、全く思考しないことがあり得るかどうかは断定できないわけで、思考があったかなかったかではなく、嘘偽りのない本当の自分から出てきた行為だと確信できた時、(宇宙の意思と一致するかどうかは分かりませんが)、他者と承認できれば、それが善行であるという考えにも共鳴します。

❤️また、再度確認したい留意点として、絶対善や個人の意志と宇宙の意志の合一を強調するあまり、全体主義にからめとられてしまう根拠に曲解されかねませんし、慎重に、丁寧に読み進めていく必要があるということも痛感しました。さらに、完全なる善の段階になると思考を通さずに自動的に体が動くというような記述があるので、先ほども書いたように、そこから思わず体が動いて相手を殴ることが「正義の鉄拳」として正当化されてしまう可能性もあるのだなと思いました(もちろん、西田はそうした感情的・衝動的な感情の発露を善ではないと明確に否定していますが、そこを読み落とすとかなり危なく解釈されてしまうと思いました)。

❤今回、再認識したのですが、絶対的に正しい真理や善などが存在しているかどうかは、人間である限り永遠にわからないこと。だからこそ、探求し続けることの面白さ(同時に難しさ)もあるのだなあと思いました。

❤️今回読書会で私の理解をお助けいただいた、苫野一徳さん、参加者のみなさんに心より感謝をお申し上げます。私が言うのも僭越ですが、ともに学ぶ仲間がいるというのは、なんともかけがえのない喜びを感じます。

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