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学校が「監獄」になる日 ―数値管理教育がもたらす危機―

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——— オーストラリアの公立学校の教育現場における数値データ偏重の問題について、より本質的な観点から考察してみたいと思います。

近年、教育現場では数値データを重視する傾向が著しく強まっています。職員会議では、生徒・教職員・保護者へのアンケート結果がグラフ化され、テストの成績や到達度が数値として示されることが当たり前になってきました。さらに近年では、生徒のウェルビーイングさえも、出席率や「学校を安全だと感じる生徒の割合」といった表面的な指標に矮小化されています。本来、ウェルビーイングとは、生徒一人一人の深い自己理解や充実感、他者との豊かな関係性を含む、極めて質的な概念のはずです。それを数値化して管理しようとする発想自体に、現代の教育が抱える根本的な問題が表れているのではないでしょうか。

このようなデータ重視の姿勢は、教育の本質を大きく歪めています。ルソーやデューイが提唱した「子どもの自然な成長を支える」という教育理念は、現代の管理教育の中で完全に形骸化しています。むしろ、フーコーが指摘したように、数値による管理は新たな監視と規律づけの手段として機能しており、テストの点数や到達度といった数値目標が、教師と生徒の両方を縛る「監獄」となっているのです。

学校教育の本質は、一人一人が自由に考え、判断し、行動する能力を養うことにあります。そして同時に、互いの自由を認め合い、尊重し合う感性を育むことも重要です。しかし、これらの価値は数値では決して表現できません。にもかかわらず、現場では数値化できるものばかりが重視され、本質的な教育価値が軽視されています。

データ収集の過程自体にも深刻な問題があります。アンケートの回答者は十分な時間をかけて深く考える余裕がないまま、次々と回答を求められます。その結果、得られたデータの信頼性には大きな疑問が残ります。さらに重要なのは、人間の感情や成長過程という複雑な要素を、単純な数値で表現することの根本的な限界です。同じデータでも、扱う人の価値観や目的によって、その解釈は大きく異なってきます。

私は教職員との対話を通じて、この問題の解決を模索してきました。しかし、「そうした対話の時間さえない」という返答に何度も直面し、深い失望を感じてきました。皮肉なことに、効率化を求めるあまり、教育者同士が教育の本質について語り合う機会すら失われているのです。

このような状況は、教育現場に深刻な影響を及ぼしています。数値目標の達成が最優先されることで、教育が画一化され、個々の生徒の個性や多様性が軽視される事態が生じています。また、教師と生徒の間に本来あるべき自由な関係性が損なわれ、管理的な関係が強化されているのです。

もちろん、データが教育改善のための一つの手がかりとなることは否定できません。しかし、私たちは数値では測れない教育の本質的価値―自由な精神の育成、深い学び、豊かな人間関係の構築―を決して見失ってはなりません。教育現場では、表面的なデータに惑わされることなく、一人一人の生徒の真の成長を支える姿勢を取り戻すべきです。そのためには、どれほど忙しくても、教育者同士が教育の本質について語り合う時間と空間を確保することが必要不可欠です。それなくして、教育の真の発展は望めないのではないでしょうか。

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