
【哲学読書会】一般意志とは何か?

【一般意志とは何か?】
❤社会契約論についての読書会に参加させていただき、今回も誠にありがとうございました。皆様のおかげで毎回理解を深めることができ、大変贅沢で学びの多い時間を過ごさせていただいております。このような機会があるからこそ、私も刺激を受け、様々な方面に視野を広げて学びを深めようというモチベーション(ダジャレコ含む:笑)があがるのです。改めて読書会の持つ力に心より感謝申し上げます。
❤苫野一徳氏のVoicy配信を聴き、私は一般意志という概念について、もう一度深く考え直したいと思いました。この概念は、ルソーの哲学を理解する上で重要であるだけでなく、現代社会における民主主義を考える際にも避けては通れないものだからです。他者の解釈を鵜呑みにするのではなく、誰もが納得できる根拠に基づいて、原理的な理解を目指したいと考えています。
❤しかしながら、一般意志については実に様々な解釈が存在しています。例えば苫野一徳氏は、社会契約論の具体的な記述を根拠に、民衆が対話を重ねて合意を形成していくというボトムアップ的な解釈を示されています。私もこれこそが民主主義の根幹であり、この視点を欠いては民主主義とは呼べないのではないかと考えています。一方で、AIによる社会契約論の解析では、ルソーは民衆による対話を警戒しており、むしろ独立した判断に基づく投票を重視していたという解釈や、民主主義の専門家やエリートが一般意志を形成し、それをトップダウンで民衆に与えるべきだとする民主至上主義的な解釈も存在します。また、東浩紀氏は異なる引用箇所を基に、一般意志は民衆を超越したものであり、討議や合意形成からは生まれないと主張しています。そして、一般意志は遡及的に発見されるものであり、後から訂正できるとしています。さらに、ハンナ・アーレントは一般意志を全体主義的だとして批判し、バートランド・ラッセルは一般意志を抽象的かつ理想主義的すぎると指摘しています。古典や原典に日常的に触れない人々にとって、このような解釈の多様性は困惑の源となり得るため、誰もが納得できる根拠と解説が求められているのです。



❤私個人としては、社会契約論の引用箇所を根拠として、対話によるボトムアップの合意形成こそが民主主義の本質であると理解しています。私にとってはシンプルな結論なのですが、なぜこれほど多くの異なる解釈が生まれるのか、不思議に感じています。ただし、現象学的に考えれば、絶対的に正しい解釈というものは存在しないわけで、むしろ異なる解釈を持つ者同士が、自身のコギタチオとコギタートゥム、つまり各自の内面に到来し、どのような解釈に至ったかについての理解を、しっかりとした根拠に基づいて提示し、検証し合うことが重要ではないでしょうか。苫野一徳氏がVoicyで指摘されていたように、確かな根拠を示せない場合は、「イメージや当てはめ的解釈」として批判されても致し方ないと考えています(そこらへんについては、近い内、苫野氏がVoicyで論じられるようですので、楽しみにしています)。
❤今日の学校現場を見てみると、多くの学校のクラスにおいて「スクールカースト」という現象が見られるようです。民主主義は対等な関係性を土台としているものであり、未来の社会を担う子どもたちの日々の学びの場である学校で、このようなピラミッド型の構造が見られることは、非常に深刻な問題ではないでしょうか。もちろん学校には様々な規則やルールが存在していますが、スクールカーストはこうした表のルールの網の目では捉えられない影のルールも含んでおり、それを破ると周囲から無視されるといった事態も起こるようです。そして、そのピラミッド型の頂点にいる人間を何らかの形で引きずり下ろすと、そこにまた新たな「王様」が生まれるような現象も見られます。このようなピラミッド型のスクールカーストの中では対話や合意形成が成り立たないため、本来、自由の相互承認の感覚を養うはずの学校教育において、原理的にも大きな問題であると言えるでしょう。



❤したがって、学校はルールさえあれば良いというわけではなく、また子どもたちと一緒にルールを作れば良いというだけでもありません。もちろんそれも大切ですが、それに加えて、一人ひとりが自由に生きる能力を伸ばすことと、自由の相互承認の感覚を養えるような環境作り、システム作りが重要だという指摘もありました。これは「叱る依存が止まらない」でお馴染みの村中直人さんが最近出版された「脱・叱る指導」という本の内容を思い出させます。この本は主に学校の部活動などにおけるスポーツ指導での罵声が飛び交うような叱責の問題に焦点を当てています。それは部活動という閉鎖性とその権力性に由来する叱責が行われているということで、子どもたち一人ひとりが主体性を養える、つまり良い意味で冒険を行えるような環境づくりが重要だという指摘があったことを思い出しました。やはりルールと仕組み作りの両方が両輪として展開されていく必要があるのでしょう。


❤一般意志を理解する上での具体的な素材として、私の方から、今日の日本のマスメディアが連日取り上げているタレントの中居氏の問題におけるネット上の世論をどのように見たら良いのかという問題提起をしました。私の中には直感として「これは一般意志ではない」というものがあり、これをもっと言語化できないものかと思い、一般意志をよりクリアに理解するための良い教材として提示したわけです。皆さんとの対話によって見えてきたのは、このスキャンダルをめぐるネット上の議論は、そもそも全員が自由になるために行われているものではなく、それぞれが対話をしているわけでも、対話に基づく合意をしているわけでもなく、バラバラに自分の個人的な感情や考えを表明しているに過ぎないということです。また、多くの人がこの問題を知らないか関心がない状態であり、さらには、実際にこうしたSNS上の議論はインターネットユーザーのほんの一握りの人間の中で行われているということも考え合わせると、これはみんなが自由に生きるため、みんなのためになること、みんなの利益を考えるという民主主義の原則とは全く異なる次元で展開されているゴシップに過ぎないのではないか、という結論に至りました。


❤ところで、私は毎回このようにダジャレの混じった五七五の句を作って、学習を振り返ったり感想を表現したりしているわけですが、これは初めから自分で意図して100%やっているわけではありません。今回、参加者の1人から、私の発言が「ダジャレをつくろうとしているんじゃないか」と指摘され、私の中にはその意図が全くないと思っていたので驚きました。今回このような形で新たなダジャレの機会が到来し、それに基づいて私がダジャレを作るという構造が見えてきて、とても個人的に面白かったです。

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