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ゴッホの「農夫の靴」に何を発見したか?

#哲学 #ハイデガー #存在 #真理 #川柳 #だじゃれ

——— 私たちは物事を認識する際、どの観点から捉えるかによって、その体験が全く異なるものになります。たとえば、目に映るものをできるだけありのままに捉えようとする姿勢は、対象の「何(what)」に注目した見方と言えるでしょう。一方で、その目に映るものが自分の存在にとってどのような意味を持つのか、あるいは人生の本質とどのような関わりがあるのかといった「なぜ(why)」の視点から見ると、その体験は一層深く、意味のあるものとなるように感じます。

最近、ハイデガーの哲学について学び始めたのですが、彼の考え方はフッサールの現象学とは異なる視点を提供しています。フッサールは、人間が物事をどのように認識するかに注目し、意識に現れるものをできる限りありのままに捉え、その中に人間の意識構造の普遍性を見出そうとしました。

一方、ハイデガーは認識されたものそのものの表面ではなく、それが人間の存在や人生の本質にとってどのような意味を持つのかに焦点を当てているように感じられます。たとえば、ゴッホの描いた農夫の靴の絵について、ハイデガーはその絵が意識の中にどのように現れるかという「what」ではなく、農夫の生活や存在全体、さらには人生の本質にとってどのような意味を持つのかという「why」に注目しているのです。

つまり、ハイデガーは真理についての考え方をさらに深く展開したとも言えるのではないでしょうか。従来、真理は「正しい」か「事実である」かという視点で捉えられてきました。しかし、ハイデガーは真理を、存在全体や人生の本質に関わる問いかけのきっかけとして捉え直したように思います。彼にとって真理とは、単なる「正しさ」ではなく、存在にとってどのような意味を持つのかを考えさせるものであり、私たちに深い内省を促す契機でもあるのです。

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