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どうすれば「よい教育」を実現できるのか?


❤️苫野一徳氏の「学問としての教育学」の読書会に参加して大きな学びがあったので、以下にシェアさせてください。

❤️古今東西人間はより良い教育を求めて様々な試行錯誤を繰り返してきました。しかし、良い教育と言って思い浮かぶのは、何かたまたま良い先生がいて良い実践をした情景だったりします。良い教育を議論するとしても、それぞれの好みを語るだけであったり、悪い教育を延々と語ったりするわけで、多種多様な好みの教育論が展開するだけで、なかなか話が深まらないことって結構あるなあと思いました。例えば、1回こっきりの素晴らしい実践をみんなで褒めたり、うらやましがったりする状況がいろいろな場所で見られるのではないでしょうか。他の場所でも再現できる科学性を持った実践というのはなかなか見出せないようです。



❤️こうした状況は「そもそも良い教育とは何か」と言う土台となる原理的な問いがしっかり現場に浸透していないから、ということが、大きな原因の一つとして言えるのではないでしょうか。多くの現場でそもそもの本質を問うこと自体が敬遠されたり、本質を表す語彙が心に届かないという悲痛な声も聞かれました。



❤️もちろん、様々な科学的データを持ち出して、実証主義的に客観的に良い教育を論じる人たちも大勢います。しかし、原理的に考えれば、客観的事実とか、絶対的真理に、人間は、自分の意識のOSを超えて到達する事はできないわけで、また、数値が私たちの内面を完璧に数値化できるはずもなく、究極は「科学的エビデンス」と呼ばれるものを検証しながら、私たち一人一人が自分の意識の中でどのようにそのエビデンスを確信できるのかできないかをしっかり踏まえていく必要があるのではないか。そこを持ち寄って、お互いに合意できるところを見出していくしかないのではないかということを学びました。



❤️科学的エビデンスだけで、それを自分の「体験的反省的エビデンス」を通さずに鵜呑みしてしまったんでは、ありがたい神託を受け取る宗教行事と同じになってしまうと言う指摘に、はっとしました。



❤️私は外国語の教師として、この「体験的•反省的エビデンス」の重要性をほんとに最近感じています。外国語の教師として、その「教師」と言う枠組みの中で、生徒にいくら外国語を教えても何か限界があるように感じます。それよりも外国語の教師が自ら全く新しい外国語を学ぶことによって、自分の中に「この方法でやっても、外国語が身に付かないなぁ」とか「このような姿勢で外国語学習すると、モチベーションが続くなぁ」とか、自分の中の外国語に対する新しい確信が芽生えたりします。それをもし外国語教師や子どもたちや関係者が持ち寄って対話をしたら、ものすごく有意義で面白い外国語学習の方法が生まれるんではないかと新しい展望が今回見えました。



❤️そしていつも良い教育とは何かを考えた場合、外国語教育は非常に重要な役割を果たしているんだなぁと言うことを自覚しました(まだ自分がそうした役割を十分にしている教師だとは思えませんが)。つまりどういうことかで言うと、私たちの多くが腹落ちするところとして、より良い教育とは、(1)一人ひとりが自由に生きるための能力を養うことであり、それと同時に、(2)お互いの自由を侵害せずに相互承認する感度を学ぶことが重要であると言うことが欠かせないものとして言えるのではないかと思うのです。特に外国語は自分たちとは全く文化も価値観も違う人々とのコミュニケーションを志向するものであり、それは国境を超えた自由の相互承認を促進する上で欠かせない一つの契機だと確信したのです。

❤️私は最近YouTubeでよくkazu Languegesさんの動画見るのですが、相手の外国語を話すということが、いかにお互いの間にあった氷の壁を溶かし、心をオープンにするものであるかということが非常にわかるのです。初めは初対面で仏頂面をしている相手が、kazuさんから母国語を耳にした途端に、驚いたり大きな笑みを浮かべたりして、次第に心を開き、お互いに自由に心に触れる会話ができるようになっていく動画が山ほど紹介されており、外国語を学ぶことが自由の相互承認の第一歩になると言う確信を私は得ました。もちろん世の中には外国語を学んで、それをスパイなどのように悪用したりする人々もいますが、だからといって外国を学ぶことによる相互承認へのポテンシャルは否定的ないと思います。


❤️現象学においては、そもそも信念対立の原因となる客観的事実や絶対的真理みたいな形而上学的なところは、一旦脇に置いておくというか、判断を保留(エポケー)して、意識に中に立ちあらわれる現象を持ち寄りながら、普遍的な認識を深めて、本質を探究することが方法論としてあるわけですが、自分の信じる「客観的事実」や「絶対的真理」に対して何も疑いがない人に関しては、こうしたエポケーはやらないだろうと言う指摘はなるほどなぁと思いました。



❤️たとえ数字で表されないことであっても、私たちの内面にはどうしても現象して無視できないことがありますが、それこそお互いに出し合ってどういうことなのかを検証していくことが重要ではないかと言う指摘もありました。そしてそうした数値化ができないことについて、体験的反省的エビデンスを持ち寄って、対話を重ねながら、様々なデータも集めながら、それらを構造化し、コード化して普遍性を持たせていく中で、その科学性が深まっていく方向性も見えてきました。そのようにして構造化された実践は、たとえ数値化されなくても、1回こっきりのものではなく、他の場でも応用できる力を持った時、非常に高い科学性を持ちうると思いました。


❤️コロナのワクチンをめぐる議論も、科学に対する間違った認識から不毛に陥ったのだと理解しました。そもそも科学は、客観的事実や絶対的真理を明らかにするものではなく、それは研究する人間の欲望関心に基づいて実験などで見出された事象をより信憑性の高い仮説として提示するに過ぎないと言うことを、もっと多くの人々が認識すべきではないかという指摘がありました。つまり、大切なのは、絶対的真理が何かということよりも、「科学的エビデンス」を鵜呑みにすることよりも、お互いが自らの「体験的•反省的エビデンス」を見出しながら、どんなところで普遍的に合意できるかと言うところを、もっとオープンに話し合うべきではなかったかと。

野中恒宏

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