身体がいらなくなる生き方?! - 小松美羽さんの生命観
私は、昔から何らかの形で絵画に興味があります。それは、アニメーションと言う形であったり、葛飾北斎と言う形であったり、西洋の画家と言う形であったり、いろいろな形で興味を持ち続けきました。
最近は、現代アーティストの小松美羽さんの作品や生き方に非常に興味があります。
彼女のインタビューなどを見ると、非常に彼女のユニークな生き方というか、生命観が浮かび上がってきます。
https://youtu.be/dvHkM2ZmApY
すなわち、彼女は、全身絵の具まみれになりながら、絵を描くのですが、彼女に言わせれば、それは彼女が描いていると言うよりも、異なった次元の存在が彼女を導いて彼女を通して描いているようなのです。
つまり、彼女の主観の中では、彼女は異なった次元の崇高な存在とつながっていると言う事が、彼女のアートの基本になっており、それが彼女の人生観に大きな影響を及ぼしているようなのです。
私が非常に関心を持ったのは、彼女が空海について語った時でした。すなわち、空海は、誰もが知っているように、厳しい修行を通して、日本の仏教会の最高峰に位置する方です。その方が今でも生きていると言うのです。それは、オカルトチックに幽霊として生きていると言うことではなく、彼は肉体を持って生きている時から、修行し続け、肉体がなくても生きていけるレベルまで魂が成長したと言うのです。したがって、肉体がなくなってからも生き続けていると言うのです。
小松さんも、そうした空海に見習って、自分の魂に磨きをかけて、肉体がいらなくなるレベルまで成長し、やがて肉体が滅んで後も、肉体を持って生きている人々を見守りながら助けていきたいと言うようなことを言ったのです。
まるで、近未来のSF小説の中で、身体性を失って、脳だけになった人間の社会を語っているようなビジョンにも通ずるものがあるようにも感じられます。
世間一般の常識的な視点で言ったら、突拍子もないことであり、何を絵空事を言ってるんだみたいな感想を持つ人もいると思います。
私も、現象学を学ぶ以前だったら、そのように考えて、彼女の考えに対して、否定的な見方をしていたかもしれません。
問題は、彼女が言っていることが、科学的に正しいかどうか、客観的に正しいかどうかではないと言うことです。人間は、原理的に言って、自分の主観の外に出ることができないので、物事を100%客観的に認識することはできませんし、ましてや100%の絶対的な真実に到達することもできません。
したがって、私たちの認識は、どんなに科学的、客観的に見えたとしても、それは自分の主観の中の確信であり、信憑であると言うことなのです。
その理由から言っても、小松さんの言ってることが正しいか、間違っているかを議論する事は、あまり意味のないことと言って良いでしょう。彼女の言っていることは彼女の確信であり、信憑なのです。それは以上でもそれ以下でもないのです。
そもそも、私たちが心の中で何かを思ってしまったこと、感じてしまったこと自体は、誰にも否定できません。例えば、自分があるりんごに対して「おいしい」と思ったこと自体は、誰にも否定できないわけで、他の人が「それは美味しくないだろう」と言ったとしても、本人にしてみれば「おいしい」と思っちゃった事は否定できないことなのです。
ちょっと抽象的な言葉を使えば、私たちが心の中で思った内容については、間違っていると判断されることもあるでしょうが、私たちが心の中で思った意識作用が生じたということについては、否定できないのです。別の言い方をすれば、内容は否定できても、機能は否定できないと言うことです。
つまり、私たちの心の中では、それがどんな内容であったとしても、そういう内容が心の中に浮かび上がってきてしまうという機能は否定できないのです。
つまり、人間のデフォルトとして、何かが心の中に浮かび上がってしまう事は、必然ですし、疑うことができないのです。そして、浮かび上がってきた事は、本人にとっては妥当性を持つわけです。その妥当性を他者が伺うことはできないのです。
ですから、小松さんの言っている内容について、色々と疑念を挟む事は自由ですが、小松さんの中にそういった生命観が浮かび上がってきた機能自体は否定することはできないのです。彼女がそうした生命感に妥当性を持っていること、確信していることは他者が否定できないのです。
そして、先ほども言ったように、私たちは客観的な事実や絶対的な真理には到達できないと言うことを思い出す時、自分たちの心の中に沸き起こってきた内容が正しいかどうかを思い患うよりも、自分たちの心の中に沸き起こってきたことを尊重したいと思うのです。
人間の歴史をひもといても、ある特定の人々の心の中に、浮かび上がってきたことを絶対的に正しいとして、他の人の心の中に浮かび上がってきたことを絶対的に間違っているとして、抑圧、排除してきた歴史があります。人間は、そうした歴史を繰り返さないためにも、一人ひとりの心の中に浮かび上がってきたことを尊重する内心の自由と言うものが認められています。
そうした内心に現れたことが行動として、他者の自由を侵害しない限り、私たちはそうした内心の自由を認めていきたいわけです。少なくとも、それが近代社会の1つのルールになった事は多くの方々に合意いただけるのではないでしょうか。
平たく言えば、私たちは心の中に何を妄想しても自由なのです。そして、その生命観が正しいかどうかなどは誰にもわからないのです。だとしたら、私は小松さんのような自由な生命感を妄想しながら生きてみるのも良いかなぁと思いました。
今私が書いている文章は、私自身が書いてるように感じる一方で、私が意識していない力も加わっている側面があることも事実であるように感じます。当初は予定している内容に発展している部分があるからです。そうした自分を超えた存在の力と共に生きていると言う妄想を抱きながら、生きていきたいなと思っているのです。
ちなみに、私も、身体が入らなくなる位に、魂のレベルを高めたいなと思っているわけですが、だからといって身体性を否定するわけではありません。身体にも深い叡智があり、身体は、私たちの五感や脳の機能を超えた次元につながる入り口と言う側面があると思っているからです。つまり、魂を高めるためには身体も必要だと言うことです。
私はそのように考えていますが、あなたはどのように考えますか。
オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏
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