「宇宙一美しい奇跡の数式 0=∞=1」ノ・ジェス【読書感想文】
と帯にあり、興味を惹かれて
読んでみた本です。
私達が普段生きて、見ている世界を
「超越した観点」でこの世を見る、
枠の外に出る、という不思議な体験ができ、
なかなかの衝撃を受けました。
そして私が惹かれる本の共通点について
見つけることにもなった一冊です。
とても面白い本なのですが、
脳の大前提を覆していく本なので
私の頭ではなかなか理解が追いつかず。
順を追って読み込んでみて、そして
何度か読み返してみて、ようやく
なるほど、そういうことか!という
理解を得たので、短く要約したり
説明するのがとても難しかったのですが、
少しでも伝わればと思います。
著者ノ・ジェスさんが到達した境地「HITOTSU」とは
韓国人である著者のノ・ジェスさんが、
絶望的な状況で、日本にいるときに
突如体感として得た「ひとつ」の感覚。
これは多くの賢人聖者が体験してきた
「悟り」と同じものだと感じたようです。
ただ、自分が得た世界を同じように認識し、
上下なく、チームプレイや協力関係を
築くことに成功した先人は、
これまで一人も存在しない、と
いうことに同時に気づきました。
「認識の再現」ができなかったと。
認識の再現ができないので、
説明ができず、体感として
共有することができない。
真実の世界を共通認識の基盤に置いて、
人々の心の変化を導き、実社会の
変革に向かわせるというステップに
進みようがなかったと言います。
これまでは、どうしても誰か
特別な一人を存在させて、
その人の下について学ぶ、という
ピラミッド型の組織にならざるを得なかったと。
確かに、これまで悟りを得たといわれる
聖人達はたくさんいましたが、
人々が同じように共通認識として体感し、
悟っていくことはなかったかと思います。
だからこそ、「ひとつ」「悟り」とは、
多くの人が現実社会とは乖離したもの、
理想論であったり、日常生活に直接
関係のない高尚な思想であるかのように
捉えられてきてしまったのだと思います。
ノ・ジェスさんは、
この「ひとつ」の感覚を
どうしたら「再現性のある認識」
として共有できるのか
ということを考えました。
「悟りを科学するには?」と。
机上の空論ではなく、
ある特別な人の境地ではなく
誰もがそれを認識し、
人間として生きる上で実際に
有用に活かす方法論はないかと考えました。
それには、前提として人間がどのように
世界を認識し、見て、生きているか、
ということを明らかにすることが必要だと。
この本は順を追って読み進めることで
筆者の意図と論理、イメージが
つまびらかになっていく
筋立てだと思うので、
一つ一つの細かい内容については
お伝えしません。
(というか、できないです!汗)
この世で生きる上での大前提が覆され、
自分とは、現実とは、世界とは、が
明らかになっていく過程はとても
ワクワクします。(ぜひ読んで欲しい!)
私が印象に残った箇所と
大枠のところを
感想として書いてみようと思います。
この世界をどう見るのか?考え方の本質とは。
ノ・ジェスさんが言うには、
私達の日常の認識のありよう、
考え方の本質とは「質問」と「答え」
このペアで成り立っていると言います。
Aという質問があり、Bという答えを求めて
「考えの走る道」を通る。
A「もっと良い仕事をするためには?」
↓
B「これをやってみよう」
というように。
人間の特権であり、
同時に人間の宿命的課題は
「考えること」。
物質とは何か、力とは、心とは、
愛とは、自分とは…
"自分がどんな質問を持っているのか"、
つまり"どんな問題意識を持っているのか"で
人生が変わっていく。
質問に対する答えを求めて
考え、感情、行動を走らせ、
それが人生を形成していくからだと言います。
人は無意識に「質問→答え」を
自分に投げかけて
人生を作っているということですね。
現実とは一体何か?という問い。
私達はまず、「ある」という前提で
全ての物事を見ています。
ですが、細かく私達の存在を
物質として紐解くと、
最終的には宇宙の向こう側の
「何もない」という状態に
科学的にも辿り着いてしまうそうです。
(素粒子→振動するひものエネルギー→宇宙の外の膜といったもの)
ここで若干混乱してきますよね。
私達はここに確かに存在していると
自分で認識しているのに、
本当は「何もない」?と。
「条件によって変化する相対的存在」
である私達は、(私達が見方によって
分子になったり素粒子になったりする
ということ)つまり、
固定された絶対的な存在でない。
私達自身も、見ている現実も、
何かの濃度の違いによって
そう見えている「錯覚=ホログラム」
なのだと言います。
(本の中ではもっと詳しく
説明されています)
こうやって
本質的な、根源的な「なにか=ひとつ」
⇄我々が認識している相対世界
を比較しながら、
私達が今生きている、見ている世界の
大前提をひとつ一つ問い直していくことで
「有」の世界に押し込められた
私達一人一人の可能性をもっと
拓いていくことができるのではと
個人的には感じました。
人間の無限の可能性、尊厳性、叫び。
私がこの本に感銘を受けたのは、
筆者が真実の視点に立って
現実の人間を見たときに、
・「人間がいかに無条件に美しく、
素晴らしい、存在そのものが奇跡で、
神秘で、神聖であるか」
・「その対称性として、人間が置かれている
現状がいかに悲惨で、残酷で、屈辱的なのか。
人間の本来性、尊厳性、無限の可能性がいかに
毀損され、破壊されているのか」
という二つの側面を見出し、
「人間、こんなもんじゃないーーー!」
という真実からの憤怒を抱いた、
という点です。
根源的な認識の視点に立ち、
人間の尊厳性を取り戻したい
という姿勢。
著書の中では、
人間の考え方(脳)の癖だったり
脳の初期設定について触れ、
「認識」の大前提にまで
立ち戻れるように導かれます。
そしてその制限を外した
視点から科学的に得た
悟り=ひとつを表す数式が
表紙にもある、「0=∞=1」です。
人間の認識の成り立ちについて説明し、
人間の考え方の癖を示し、
自分という存在が本当に「ある」のか?
という根源的なところまで引き付ける。
そうやって「有」のパラダイムからの
脱却を疑似体験させ、初めて「ない」
という観点に立たせることによって、
縛られてきた現実の鎖から解き放とう
という試みがなされているのです。
私自身が、これまで色々な本を読んできて
特に感銘を受けたり影響を受けたものは皆、
この「人間、こんなものじゃない」という視点を
湛えていたのではないか、と思い至りました。
「人間、こんなもんじゃない」のに、
人は「有」の視点から現実を認識し、
著者の言葉を借りれば
「ビンの中で、ビンから出られない鳥として」
生きている。
自分はこんなもんだ、世の中こんなもんだ、
無自覚な諦めやリミットを作って
しまっている。
そういう「観点」で生きている。
そしてビンの中で、社会の空気の中で、
お金、地位、名誉、名声などの豊かさに
対する欲求が外から刺激されている、と
筆者は言っています。
そこに向かう向上心や進化の意志は
とても重要だが、それは基準点が
「有」のパラダイムにとどまっていると。
脳の錯覚の中で、
本来の無限の人間の尊厳性を
押し殺し、作られた欲求や観念に
躍らされていることへの憤り。
私が日々感じていることはこの感覚に
とても近いと感じました。
人が、人間の癖として、
無意識の脳の働きとして
自らビンの中に入り、出られない鳥として
生きている姿を見ると
「こんなものじゃない!」と
どこへ向けて良いのかわからない
人間の尊厳性が奪われていることへの
もどかしい叫びが湧いてくるのです。
本当は、
ビンもないし、鳥もいないのだ。
「有」の鎖からの脱却、
前提の外に基準点を置いてみる。
そうすることで無意識に自分に
負わせている諦めやリミットから
解放されるのではないでしょうか。
"人間が「観念」を抱いて生きている"、
と自覚しながら生きている人は
少ないかもしれない。
観念があると自覚しながら、
「無意識で自分が感じていることが
正しいし真実である」という
知の完全性の罠から抜け出す、
ということは、自分の人生を
客観性を持って眺め、
生きるということです。
観念を自分から引き剥がすことで
真理がようやく見える位置に
初めて立つことが
できるのかもしれない。
人間の尊厳性を
闇雲にただ「信じる」
という方法でなく、
論理とイメージを使って
再現性のある形で
多くの人に伝えたいという
筆者の純粋な叫びを
とても素敵だと思いました。
本の最後、とても素敵で希望的な
言葉がありました。
ここまでの壮大な
認識の変革を踏まえて
この言葉を見た時、
人間の本来の尊厳性と神秘性が
自然と浮かび上がってきた
ように思いました。
「人間、こんなもんじゃない!」と。
私達は皆、奇跡で、素晴らしいんだと。